2006年7月18日 (火)

ハチクロ9巻を読んで、失われた半身の行方について考える

残念なことに、このブログを読んでいるごくごく限られた読者のみなさんのうち、ハチクロこと、『ハチミツとクローバー』を読んでおられる方はとても少ない(多分)。

なので、これから書くことは微妙にネタバレなので、読まない方がいいと思うし、読みたいならまずハチクロ全部読んで、腕立て伏せ百回してから読め!、と強く主張したいところではある。

しかし、我が身を振り返れば、それほどいい話を書く予定でもなく、むしろいつもの尻切れトンボの理屈こねくり回し話になることは決まっているので、賢明なる読者諸君(推定ヒトケタ)は、その辺、良識ある社会人として、適当に判断して欲しい。

でも、全巻読み終わってから、読んだ方が3倍は面白いこと請け合いです。

つまり、シャアザク並に面白いということだよ、ヤマトの諸君(出典が混乱)。

■ マンガの命題としての「失われた半身」

マンガ評論とかで論じ尽くされているのかもしれませんが、マンガというジャンルには「失われた半身」というテーマ(単なるストーリー上の演出ということもままありますが)が、けっこうある。

最近のところだと、『鋼の錬金術師』の主人公エルリック君がそうだし、青年誌だと『ベルゼルグ』の主人公ガッツ氏も然りだ。

古典的なところでは、『コブラ』などもそんな演出だったし(うろ覚え、サイコ銃だけだっけ)、少女漫画だと『キャンディ・キャンディ』のテリィ&スザナのエピソードが印象に残っているなぁ。あれは、子どもごころにとても哀しいシーンだったなぁ、、、(しばし回想)。

ともあれ、マンガというのは記号表現ですから、身体の一部が欠落しているというのを、記号としてわりとさらっと描けてしまうというところがあると思います。

こんどかかる宮崎息子監督の『ゲド戦記』で、ヒロインのテハヌーが、原作の小説では、半身に死んじゃうかもしれないくらいの大やけどを負っているのにたいし、(少なくとも月影先生よりも重傷だと思う)、アニメでは痣程度の表現になっているみたい(まだ上映されてませんからなんともいえませんが)なのは、ひとえに動画の世界では身体の一部を欠落させてしまうと、ちょっとそこに引きづられすぎてしまうからだと思う。

で、マンガ世界で記号表現として抽象化された「失われた半身」が、どこにいってしまったかということについて考えてみたわけです。

少年~青年マンガの世界では、だいたいなんかの力の代償として「あちら側(web進化論じゃないよ、彼岸と此岸の彼岸だよ)」に捧げたり、奪われたりしていることが多い。

エルリック少年もガッツ氏も、半身を失うことによって、結果としてこちら側の「力」を得ているわけです。

はやい話が生け贄的なわけですな。

ところが少女漫画世界だと、どうも「失われた半身」は、「あちら側」に捧げた訳ではなくて、こちら側の「愛」を得るための代償となっていることが多いような気がします。『キャンディ・キャンディ』のスザナ然り、『スチュワーデス物語』の片平なぎさ(役名忘れた、しかもマンガではなく大映ドラマ!)然り。

これらはラブストーリーですから、当然欠落を補充するものとしての「愛」に焦点が集まります。生け贄というより、代償、あるいは身体性の置き換えみたいな感じですか。

ともあれ、こちら側の問題なわけです。

一方、少女漫画でも『ガラスの仮面』の月影千草女史などは、半身を火傷で失ったのちは、後継者探しの鬼と化し、物語の狂言回しとなります。

いわゆる芸術ものでは、少年マンガとは違った意味で、あちら側に捧げた半身によって、こちら側の力(妄執めいているけど)が得られているとなっているとも考えられます。

あちら側とこちら側という表現が、やや多義的ですが、イメージとしてしては、この世の理屈、常識が及ばない世界と、及ぶ世界という感じでしょうかね。

マンガ世界では芸術は、神さまからのギフトをもたない凡人にはあちら側のものとして描かれるし、色恋沙汰というのは凡人にあまねく与えられるこちら側のものとして描かれることが多いように思います。

■ ハチクロにおける「失われた半身」

このように整理したのち、「失われた半身」というテーマからハチクロを読み直すと、それは原田-理花-真山ラインのものだったことが見えてくるわけです。

あちら側(あの世)にいってしまった原田と、こちら側(この世)にいる真山との間で引き裂かれている理花(の心と体)という構図が、物語の中盤のストーリーに緊張感を与えてきました。

だって、理花が傷を負っていなかったら単なる『めぞん一刻』じゃないですか(いいすぎ)。

ハチクロの優れているところは、古典的なラブストーリーの骨格に、不可逆なもの、交換不可能なものを挟み込んでくるところにあります。

それは、傷ついた身体だったり、才能をもったままあちら側へいってしまった死者だったり、誰かを想う気持ち!だったりするわけです。

本来ストーリー的にはあまり重要でない山田あゆに、読者がシンクロしてしまうのは、あちら側関係者の末端にいる真山に対して、こちら側の生身の心だけで対峙しなければならない切なさにあるように思います。

で、8巻の終わりあたりでようやく、このラインが落ち着いてきたのかなと思ったら、9巻に来て、突如、「失われた半身」というテーマが、森田-はぐ-竹本ラインで盛大に変奏されたんで、愛読者諸子はびっくりしちゃったわけです。

これまでのストーリーの展開としては、森田-はぐのあちら側(芸術世界)連合にたいして、竹本こちら側軍が対峙するという、あんまりラブストーリーとしては面白みのない(竹本に分の悪い)展開なんだったんだけれど、ここへきて、はぐの「失われた半身」という問題ですから、予断を許さないわけですよ。

突如緊迫するわけですよ。

と、ここまで書きすすめてきて、気がついたんですが、実は作者、羽海野チカが、生身であちら側にいるもの=ギフトを持つものについて、どのように考えているのかが、案外、作品から読みとれないことに気づいた。

生身のギフトを持つ人間は、生身のギフトを失いそうな人間に対してどのように振る舞えるのか。

はぐの内面が、9巻までで切実に描かれているのに対して、いまのところ森田の内面はわりととってつけたようなもののように思え、それゆえ9巻のラストの収まり具合が、とても悪いように思えるのである。

というか、そもそも、森田の気持ちというところに物語全体の比重がかかってしまって大丈夫なんだろうか。

カオル-シノブのエピソードも宙ぶらりんだし。

あ、それが次巻以降に描かれるのか、、、。

楽しみだなぁ。

でも竹本はしみじみ可哀想だなぁ。

と、突如単なる感想となって、この長文は終わってしまうのである。

予告通り尻切れトンボ。

自転車とか漕ぎながら、こうやっていろいろ考えて楽しむところが、良質の作品に対する私の最大の愉悦であり、また敬意の表し方なんだけれど、はたから見てると、理屈ばっかこねないで、もっとストレートに作品を楽しめといいたくなるところなんだろうな。

と自己言及および若干の反省の弁を表しつつ、おしまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)