2009年2月10日 (火)

映画『ベンジャミン・バトン』の心地よい閉塞感

ヒロインのケイト・ブランシェットが異常に美しい映画『ベンジャミン・バトン』を観てきた。

なにか特殊なフィルタをかけているのか、ケイト・ブランシェット演じるところのデイジーの肌だけが陶磁器のような質感で撮られていて、「さすがエルフの女王を演じただけのことはあるの〜(ロードオブリングで)」と納得させられた。

まぁ、映画の筋とは直接関係ないんだけれど、デイジー見るだけでも「元本保証」請け合いです。

あ、出資法違反ですかな。

映画は、老人として生まれて若返っていく「数奇な運命」のベンジャミン・バトンの人生を、静かにたどっていくようなタッチですすんでいく。

設定はややキテレツだが、映画としては非常に静謐な雰囲気にまとめられており、観る者の心を整理整頓するように落ち着かせてくれる印象だ。

登場人物に悪人がいないというのもいい。

T-JOY新潟万代のレイトショーで鑑賞して、萬代橋を渡りながら考えたのは、手塚治虫の「火の鳥」のエピソードのような筋書きなのに、どちらかというと「閉じた」後味なのはなぜなのだろうということ。

「火の鳥」だと、宇宙とか生命とかめくるめく壮大なテーマが語られるわけだが、ベンジャミン・バトンは、淡々と生まれて、淡々と死んでいく。

どうも、神様というか、超越的存在に対する考え方の違いなのかもしれないと、ぼんやりと考えた。

まぁ、単純に作り手の焦点の当て方の差なのかも知れないけれども。

しかし、若返っていくブラッド・ピット演じるところのベンジャミン・バトンは、内面的には成熟方向にあるわけだから、切ない感じで、ブラッド・ピットもそういった複雑な役を
好演していたように思う。

私の心の中のナンバーワン・ベンジャミンは、もちろんベンジャミン伊東なわけだが、ナンバーツー・ベンジャミンの称号を与えてもよいと思った。


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2009年1月19日 (月)

映画『ザ・ムーン』を観てビッグサイエンスの凋落について考える


まったく予備知識なく観に行った映画。

しばらく「かぐや」のハイビジョン映像の映画だと思っていたくらいだから、いい加減なものです。

実際は、アポロ計画に参加した「アストロノーツ」達のインタビューと、記録映像を構成したドキュメンタリータッチの映画でございました。

巨大ロケットが氷をまき散らしながらリフト・オフする映像は、しみじみ画になると思った。


で、何に驚いたかというと、人類が盛んに(5回だけどね)月に行っていたのが、自分が生まれる前後で、しかもそののち人類は月には行っていないこと。

さらに、この驚きがポルノグラフティによってすでに歌われてしまっていることも、メタレベルで驚くべきですな(笑)。

科学技術の進歩が人類の進歩とはシンクロしているという幻想は、もはや冷めてしまって久しいわけだ。

なんだか、「青く光る水の星」(by森口博子『水の星へ愛をこめて』)に閉じ込められてしまったような、しょんぼりとした気分になる。

そういえば、映画の主要登場人物であるアームストロング氏のファーストネームを「ルイ」だとしばらく思い込んで観ていた。

ルイ・アームストロングは全く関係ないですな。

で、アームストロング氏についてファーストネームで言及されるたび、

「「ニール」ってだれだよ、「セダカ」かよ?」とか思っていた。

『水の星へ愛をこめて』の作曲はニール・セダカだから、微妙にガンダムつながりの連関想起ではある。

無理矢理だけど。

ガンダムといえば、よく「ワンメイクの試作機ガンダムと量産型ザク(あるいはジム)と、どっちがすごいか。」という話題があるけれども、アポロ計画のようなビッグサイエンスにはワンメイク感が漂っているように思った。

人類の中のカリカリにチューンナップされた部分が、予算の能力を駆使して、ものすごくがんばって到達したレベルをもって、「人類最高到達地点」を設定するのは、やや青臭いのではないだろうか。

むしろマス・プロダクトなレベルでどこまで到達できるのかというところが今日的な価値観なのではないだろうかと思った。

なんつってもアポロに積んでたコンピュータよりも、マクドナルドで駄文を書いている私のeeePCの方が性能がいいわけですからねぇ(多分)。

とりとめもありませんが、そんなことを考えさせられる映画でございました。

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2008年8月 4日 (月)

映画『ハプニング』は、後からしみじみと楽しめます

久しぶりの映画批評。

この夏の映画は、はアニメやSFなども含めてわりと当たり年っぽい予感がある。

で、いろいろ感想などをがんばって書いていこうと思っているのだが、その先陣を切るのは、考え落ち系映画の巨匠シャマラン監督の作品、『ハプニング』。

結論から先にいうと、見に行って損はないが、得もないという絶妙なバランスの映画です。

ビジネス用語に「Win-Winの関係」という表現にならえば、「Draw-Draw」な感じの、勝ち点1映画とでもいえましょうか。

ひっかかるところが多いと楽しめちゃう法則

あんまり面白くないんだけれど、断片断片がいちいちひっかかって印象的な映画というのは、確実に存在する。

そして、私の中では、シャマラン監督は、そういう作品を撮らせたらピカいちの監督である。

この作品の前に見た「ヴィレッジ」も多分にその手のオーラが充満した作品であったが、本作はさらにパワーアップしていた。

『少林サッカー』のような突っ込みどころを明示してくる娯楽作品というのはあるが、『ハプニング』は、隠された突っ込みどころを探り当てるタイプの娯楽作品だといえる。

まず、最大の突っ込みどころは、そこそこお金を掛けて宣伝しているわりに、作品自体には「学生の自主製作映画ですか?」というくらい、お金がかかっていないところである。

実は、セットとかキャスティングとか見えないところで贅沢にお金を掛けているのかも知れないが、だとしても見えないところすぎである。

また、ストーリー展開とかカット割りとかも注意して見ていくといくらでも突っ込めてしまう。

前作「ヴィレッジ」と同じく、ストーリー順に追っていくとネタバレになってしまう趣向の考え落ち作品なので(そしてそこが多分この映画のもっともキモなんだが)、話のあらすじについては書かないが、基本パターンとして、

1、不安な音楽が流れ、
2、草木が風で「がさがさ」ざわめき
3、主人公達の表情が恐怖で引きつって…、

っていうわかりやすいホラー表現の型を繰り返して(ほんとになんども繰り返して)ストーリーは進んでいく。

どうにも安上がり感は否めない。

自然保護とか、夫婦愛みたいなテーマも描かれているが、どれもとってつけたような感じ。

上述の基本パターンでどれくらいヴァリエーションを作れるか!みたいなところが監督のチャレンジしているところのように感じた。

現代社会的なテーマとしては、
「(生物学的な意味での)自我が生きることに絶望すること、そしてそれが連鎖することの恐怖」

みたいなところがあるみたいだったが、本当にそれが描きたかったのかはよくわからない。

と、こういう風にいろいろ書き連ねていくと、まったくつまらない映画のように見えてしまうが、これが案外お金を払って損した気分にはならないので不思議。

後から、「あのシーンはないよなぁ」とかしみじみと、思い出しつっこみを入れられるという意味では、記憶に残る佳作なのかもしれない、とは思った。

しかし、宣伝の仕方は明らかに、「超大作!!」みたいな感じなので、若干誇大広告にすぎると思います(笑)。

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2008年5月22日 (木)

デイ・アフター・トゥモローをTVで見たのち「紀元前1万年」を映画館で見る

ローランド・エメリッヒ作品の前作と最新作を立て続けに見たことになるが、きわめて対照的な作品であった。

デイ・アフター・トゥモローは、いわゆる「ディザスターもの」のジャンルでは好きな作品である。

劇場、TVで、もう3回くらい観ているが、何回観ても手に汗にぎり、ほろりとしてしまう。

私のような気候変動の素人には、「北極海の氷とけたらヤバいことになる」という肝の部分の不確かさが見抜けないので、上空の寒気が地上を襲うという恐怖が、非常にリアルに感じられる。

主人公は気候学者の父(とその息子)なのだが、科学者としての判断というところと、親としての愛情と信頼みたいなところのバランスもとれていて、そこもいい感じである。

で、エメリッヒ作品ということで期待して(前評判はわりと?なものが多かったが)「紀元前1万年」を観たわけだが、つっこみどころ満載という意味では充分に楽しめた(皮肉)。

物語展開の方も充分に、あれれ、な感じなのだが、それ以前に狩猟採集社会と初期農耕社会と国家の成立のあたりの世界観が、どうにも場当たり的で、残念な感じであった。

主人公達は基本的には近代的個人として振る舞うのだが、社会の仕組みが異なっているであろう近代以前の先史時代の社会でそのように振る舞うことの奇天烈さが目立ってしまい、すくなくとも高校生ぐらいの歴史知識をもっている観客の共感は得られない感じであった。

あと、「一万年前だからといって、気候がいい加減でいいわけがないだろ!」というところも、要所要所でのつっこみどころになっていた。

主たる観客であろうアメリカ人の一般的な歴史知識を、どのように想定しているのかはわからないが、いくらなんでも場当たり的にすぎると思う。

配役やキャラクター設定は、現代的な意味での人種的な配慮がわりとされていて、その分作品世界そのものへの配慮がたりず、奇妙なことになっているというのが不思議な感じであった。

マンモスの扱いも「はじめ人間ギャートルズ」並に突飛で「え~!?」という感じであった。

既存のモーションキャプチャーのデータを加工してるんだろうから、象ぐらいケチケチせずに2~3種動かせばいいのに。

結論からいえば、エメリッヒという監督は近未来スペクタクルの大ボラは上手いが、歴史系は苦手ということなのかもしれない。

ファンタジー(というか法螺話ね)というのは、作り手によって得手不得手があるということを改めて実感した2つの作品であった。

しかしリアル先史系ファンタジーというのは、なかなかいい作品はありませんな。

むむっと思ったスケールの作品は、イティ・ハーサくらいかなぁ(これも評価のわかれる作品だと思うけど)。

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2008年3月27日 (木)

ファンタジーの型枠について──映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』『魔法にかけられて』ハシゴで鑑賞した感想など

月曜日ということで、久しぶりに映画をハシゴで鑑賞してきた。

季節も春めいてきたということで、タイトルのとおりファンタジー映画を2本連続して見てきたわけだが、ファンタジーというジャンルの型枠というか、口語的に表現するなら「お約束」的な点で、なかなかに興味深いものがあったので、考えがまとまらないなりにエントリしておく。

ファンタジーの型枠に真っ向勝負で挑んだ『ライラ~』

生物進化になぞらえれば、モダン・ファンタジーというジャンルは、『指輪物語』と『ナルニア国物語』でカンブリア紀の大爆発を終え、ミヒャエル・エンデとアーシュラ・K・ルグィンあたりで霊長類に辿り着き、RPGゲームとハリー・ポッターシリーズで、現世人類の段階に達している。

なので、このジャンルでは、ニッチの満たされた非常にきついスペースの中で、どのようなファンタジーワールドが構築できるか、というチャレンジが作り手側に求められている。

で、映画『ライラ~』は、レートがすっかり上がってしまっているこのジャンルに、真っ向勝負で挑んで、ひいき目にみてドロー、普通にみれば敗戦を喫しているような仕上がり具合の映画であった。

原作を読んでいないし、読む気もしないので、なんともいえないが、日本のファンタジーの概念でいうところの使い魔にあたるdaemonという存在(動物のなりをしている霊的なもの)が世界観のコアとなっているのだが、この存在の概念設定の仕方がどうも、いきあたりばったりな感じで、共感できないのが、ファンタジーとして致命的であるように感じた。

シロクマの使い方とか、飛行船の使い方とか、要所要所では映像的に素敵なところもあるのだが、いかんせん、ファンタジー作品の肝である「おおぼらをいかに吹くか」というところがうまくいっていないので、ドライブ感がないのである。

あと、映像的には、ニコール・キッドマンの邪悪上目遣いを、もう少し、フューチャーしてもいいのではないかと思った。

ファンタジーの型枠を「型」として受け流す『魔法にかけられて』

いっぽう『魔法に~』の方は、軽いタッチのディズニー映画で、BLOG界隈では評判がいいのでついでという気分で見たのだが、予想に反して、なかなか考えさせられる作品であった。

まず、タイトルが日本語としてヘンだという問題がある。

現代は、Enchantedというシンプルなものなのだが、これは「魔法「を」かけられて」と訳すべき語である。

しかし、こう訳してしまうとラブコメディとしてのな自動詞的な意味が失われ、なんともさだめ的な重苦しい印象になってしまうので、苦し紛れに「魔法に~」にしてみたんだろうと思う。

漢字で表現するなら「魅」なんだろう。この字のもっているマジカルな部分は内容ともシンクロしているのだが、いかんせん「魅せられて」では、ジュディ・オングである。

あえて、日本語で内容に正確に邦題をつけるならば『ニューヨーク恋物語without田村正和byディズニー』といったところか(なんだそりゃ)。

いずれにせよ、邦題で表現しづらい作品であることは確かである。

この映画は、肩の力を抜いて見ることが出来る大人のファンタジーなんだけれども、興味深かったのが、

(1)欧米の王子(プリンス)像ってのは、わりとマッチョで、バカっぽい

(2)この作品の肝は実はNYという健全資本主義メガロポリスが舞台というところにある。これが退廃的資本主義メガロポリスAkihabaraが舞台になったら、あっという間に「プリンセス・コスのどじッ娘が引き起こす大騒ぎだ、テヘッ!」みたいな型枠に押し込まれてしまうとだろう、、、

ということ。

(1)の問題は、ヤマトタケルの時点ですでに見られる日本文化の根底に流れている「童形」へのこだわりとか、「貴種流離譚」とかいったところで、「王子=皇子」的な問題をはらんでいる文化的な根の深い問題ではある。

現代的な「王子様」問題としては、ジャニーズとか小沢健二とか、はたまたハンカチ王子とかが、日本的文脈の「王子様」モデルを指向しているのに対して、及川光博だけが、欧米の「マッチョバカ王子様」のリスクに対して、わりと真っ向勝負を挑んでいるということが、この映画を補助線とすることによって明らかになる。

「ミッチーあなどりがたし」という点でも、なかなかに興味深い。

(2)については、類型化のすすみ具合というのが、ハリウッド映画、アニメ、オタク文化などのそれぞれの文脈の中で異なっていて、そこのところのセンサーをあえて混線させると、あさっての方向の意味が発生するということが発見であった。

この作品のストーリー展開の上での肝は、主人公のジゼルは、童話的なメルヘン・ロマンス世界から、現実的なロマンス世界へ、住む世界を替えるところにあるわけだが、そこのところの描き方が、すごくアンチ・エロス的に切なくて、ちょっと『プー横丁にたった家』のラストのような深いあじわいがある。もっとも、これは、イギリス児童文学を読み込んでいるファンタジーマニアでないと共感できない感覚だろう。

と、まあ、まとまりのないままエントリを終わらせちゃうが、『魔法に~』の方は、マニア目線でなくても万人受けするラブ・コメディなので、見に行って損はないです。

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2007年10月13日 (土)

映画『恋するマドリ』を見て、暴力としてのオシャレ景観論を予感する

なぜこの映画をみたかったのか、今となっては思い出すことが出来ません。

ジュンク堂でムック本を見て、「あ、間取りをテーマとした映画がやってるんだ」と思ったためか、はたまた「新垣結衣といえば、極細ポッキーのCMで「ふしぎなおどり」を踊ってた人だ。」と思ったためか。

ともあれ、久しぶりにシネ・ウィンドで映画でも見るかという気分になり、木曜日の夜にふらっと万代シティを訪れた。

結論から申し上げれば、間取りの映画ではなく、間取り図も出てこなかった。

ましてや、マドリが恋をするという映画でもなかった。

そういう意味で看板にいつわりがない、とはいえない映画ではある。

まぁ、ガールズムービーとしては、「主演の新垣結衣がかわいいんだから文句いうな」というところなんだろうけど。

◇ オシャレ空間としての品川界隈

この映画は、Francfrancというオシャレ雑貨屋チェーン(と書くと、ちっともオシャレではない)のなんかの記念作品らしく、いちいちオシャレである。

舞台は品川界隈で、新垣結衣演ずる主人公は美大生。

主人公と、松田龍平演ずるところのイケメン森林研究者と、菊地凛子演ずるところの一級建築士がおりなす淡い三角関係みたいな、とても少女漫画チックな骨格でストーリーが展開していく。

小規模なハチミツとクローバーみたいな設定といってしまえば、とてもわかりやすい。

正直、ふらっと映画館に立ち寄った、三十代も半ばを過ぎた男一匹が、どれどれと軽い気持ちで鑑賞して共感できる「とっかかり」はまるでない。

で、思ったのは舞台となっている品川界隈について。

大田区の海沿い地域まで含めたあの界隈は、私の観た最近の映画では『だれも知らない』の舞台であった。

妹の死体のつまったトランクをひっぱって歩く印象的な羽田空港のシーンなど、東京のどんづまりのリアリティを表現するのに、このエリアを舞台としたように思われた。

実際、自分の東京での生活体験(北区、千代田区、板橋区という有楽町線&京浜東北線ライン)に照らし合わせてみても、浜松町より向こうは、工場地帯な印象が強い。

ところが『恋するマドリ』は、この界隈をオシャレ空間として軽やかに再定義する。

近年の再開発が背景にあるのだろうが、画面の切り取り方が、ファッション誌のようでいちいちオシャレである。

こういう映画をシネ・ウィンドで見た多感な新潟の高校生たちが「ああいう、素敵な東京で暮らしたい」と思ってしまったりするのかと思うと、とても違和感がある。っていうか、上京した新潟県民は北区に住むのが定石だろう、というのは、昭和な感覚ですか、そうですか。

三味線を弾く老芸妓や、運河を走る釣り船なども画面にあらわれるが、それらの持つ歴史性はあくまでオシャレアイテムとして再定義され、記号化されている。

最近観ているジュブナイルSFアニメの『電脳コイル』に、古い電脳空間を焼き尽くし、新しい電脳空間に置き換えてまわる「サッチー」というプログラム体が登場するが、観ていてこの映画が、品川界隈の歴史的な景観に対してサッチーのような役割を果たしているような気がした。

考えてみれば、新潟市中心部だって、例えば上古町などはオシャレ空間として再定義されている。新潟の下町はひろく、さすがにオシャレ空間として全面的に再定義するのは手強い存在だが、タウン誌や町並みがらみの目線は、それらを隙あらばオシャレ化しようというギラギラとした光を宿しているように思う。

さらに考えをすすめれば、Francfrancなどで扱っているオシャレ小物というのは、それぞれが生まれてきた歴史的な背景を、とりあえず焼き尽くし、ファインか否かという審美フィルターをかけて消費者に届けられているわけである。

こういうのは、うがった見方をすれば、とても暴力的なことである。

先頃京都で行われた日本民俗学会で景観論をテーマとしたグループ発表があったが、空間の意味を置き換えていく作業というのは中山間地の観光地化よりも、こういった映像作品を通したもののほうが大がかりに、かつ暴力的になのではないだろうか。

まぁ、江戸時代以来、消費社会というのはそういう暴力的な構造を内包しているのかもしれないが、品川界隈といえば、藤枝梅安の隠れ家のあるエリアだ。

そう簡単にオシャレ女子達の手に渡してなるものかよ。

と、観賞後やさぐれながら萬代橋をわたって帰宅し、途中、ローソンで本格焼酎二階堂を買い求め、家でお湯割りにして飲むという、アンチ・オシャレな行為をして、身を清める。

って、なにがどのように清まっているのか、さっぱりわかりませんけどね。

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2007年5月16日 (水)

映画『善き人のためのソナタ』を観てまったき知的生命体ならざる人間の運命について考えた

映画『善き人のためのソナタ』は、なんとも寂しい映画である。

この映画のストーリーの骨格は、東ドイツの秘密警察シュタージの監視活動である。

それゆえ、ストーリー展開の要所要所にオーウェルの『1984』を連想させるディストピアの寂しさがつきまとっている。

また、画面の構成にも、人間がたくさん映っている場面がとても少ない、という特徴があり、東ドイツの陰鬱な空模様とあいまって、寒々しさを際だたせている。

例によって、月曜日のメンズディ割引で鑑賞してきたわけだが、一日一回上映になっているので劇場は割と混んでいるにもかかわらず、エンドロールが終わって出ていく人々の表情も、なんともやりきれず寂寞とした感じであった。

ベルリンの壁が崩壊して以来、われわれは自由主義の勝利みたいな政治的気分で日々を送っている。

しかし、見過ごされがちなのは、東側の社会主義諸国は、人間の知性の進化を信じ、計画的に物事を運ぶことが可能であることを信じ、そのように政治体制を組み上げていたということである。

衆目の一致するように、ホモ・サピエンスの叡智の極北であるはずの制度は、官僚主義、より当世風にいえば大企業病にまみれ、うすらよごれながら崩壊していった。

この映画は、東独の監視社会を、まったき知的生命体としてのホモ・サピエンスをどこかで信じている主人公と、官僚組織を泳いでいく「ヒトがサピエンスであることを信じていない」プチ権力者たちの戦いを通して描いている、と深読みすることがでる。

結論として、作り手は、「人は最終的に運命の許す範囲で知的生命体であることを認められる」というような、メッセージを発している(というか私が深読みの果てにそう感じただけなんだけどね(苦笑))。

知性の国、フランスですら、新自由主義者サルコジを大統領にしちゃうご時世である。

東独の監視社会を嘲笑しながら、googleに個人情報を垂れ流し、個人情報保護法に過敏になりながら、母を殺めた病める少年を丸裸にしてしまうような社会をわれわれは生きている。

われわれ人類が、まだまったき知的生命体足り得ておらず、運命に翻弄されるあわれな葦にすぎないことを思い知らされる、まことに寂しい映画であった。

でも、いい映画なので是非観てください。

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2007年5月 1日 (火)

映画『アルゼンチン・ババァ』を観て「癒し」について考えた。

原作を読んでからエントリしようと思っていたが、文庫版が品薄らしく、なかなか手に入らないのでフライング気味にエントリ。

映画『アルゼンチン・ババァ』は癒される映画であった(新潟ではもう上映していないので過去形)。

ワーナーマイカル新潟のレイトショーで観てきたのだが、深夜のがらんとした駐車場で、我が愛車、オンボロ・マーチちゃんに乗り込むときにすら、身体の中が活性化されている感覚があったのだから、相当に「癒されて」いたことは間違いない。

映画のあらすじを身も蓋もなく書けば、母親の不慮の死を家族(を含む社会)が受け止め、社会を再構成していく、やや抽象的な物語、という風に表現できると思う。

鈴木京香と堀北真希という脂ののった女優陣を擁しているにもかかわらず、女優力に頼らないところが、『フラガール』などにも通じるここのところの邦画の力強さである。

映画の内容は、さほど優しくヒューマニティにあふれているわけではなかった。

むしろ、人間のもつヒューマン以前のレイヤーに直接アプローチするような、IT系の語彙でいえば、バイナリ・ハック的な作品であった。

言語の下層にあるバイナリレベルでハックされると、否が応でも活性化されざるをえないものらしい。

で、考えたのは「癒し」あるいは「癒される」ということと、人間性についての問題。

デカルト以後の近代的自我という考え方は、基本的に人間というものを閉鎖系として想定してる。

「我思う、故に我あり」という再帰的な定義に示されているように、どことなく、ひきこもり的、というかツンデレというか、イヤ・ボーン的というか、不可侵領域を設定した心性を前提とした上で世界と関係していこうというような性向があると思う。

こういった前提にたって人間というものを認識していくと、どうしても、社会的なレベルでなんらかの傷をおった人間が、再び世界とまったき関係性をむすぶためには、機械的な回復、カタカナでいうならリ・ペア的な意味での「癒し」が必要となる。

ところが、『アルゼンチン・ババァ』の癒しは、リ・ペア的というよりリ・フレッシュ的である。

傷を傷のまま受け止めて、周囲にあたらしく系を形成していくような、生物学的、というより生態学的な回復としての「癒し」のイメージが提起されているように思う。

これは、『蟲師』とか『もやしもん』などの作品で描かれている世界認識の仕方に通じるものなのかもしれない。

さらに風呂敷をひろげれば、開放系としての自我像へのスライド、というが21世紀前半の人間性をめぐるエピステモロジークな転回ということになるのかもしれない。

と、あらゆるものを上から目線で俯瞰してみたが、実際、人間を閉鎖系として捉える認識というのは袋小路に入り込んでいるように思います。

カタカナ語が多い上、概念の整理が出来ていない内容になってしまいました。

興が乗ってくると、カタカナ語を多用するのは、概念をコメントアウトすることがめんどくさいからなのか、物知りぶりをひけらかしたいからなのか、自分でもよくわからない。

さらに、こういった自己言及自体が閉鎖系なんだよ、オールド・タイプめ、といような気もしないではない。

ともあれ、駄文、失礼。

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2007年3月26日 (月)

映画『蟲師』を観て里山と徒歩移動について考えた

フットボールシーズンが開幕したにも関わらず、どうもそちら方面のネタには筆が乗らず、映画方面のエントリ。

これでも『バブルにGO!』とか『ジョジョの奇妙な冒険』については、エントリを自制しているのでそこらあたりは察してもらいたい(何をだ?しかも上から目線だ)。

マンガを原作にもつ映画は、ここのところ一ジャンルを形成している。

当然、玉石いりまじっているわけだが、そんな中、わりと最近気に入って読んでいる『蟲師』が映画化されたので、観てみようとおもいたった。

マンガの方を読んでいない人には、なかなか説明しづらいのだけれども、『蟲師』というのは、明治末~昭和初期あたりの日本を舞台にした、バイオ日本昔話(なんじゃそりゃ)みたいなお話で、なかなか雰囲気がある。

キーになるのが、「蟲」と呼ばれる存在なんだけれども、これは、まあ、日本語の「ムシ」という単語のもともとも語彙範囲に近いようなイメージで、「疳の虫」とか「腹の虫」とかいう際の、「ムシ」というイメージを図像化してみたものだといえる。

図像としては、微生物&軟体動物なデザインで、マンガ版の風の谷のナウシカの蟲の小型の方のやつみたいな感じ(ざっくりとした解説)。

で、本題の実写版の方の『蟲師』だが、これがなかなかに評するのが難しい作品で、映像美的にはA、ストーリー的にはBマイナス、観ていろいろ考えさせられる度的にはAA、といったところか。

邦画にありがちな分裂評価。

ストーリーは、マンガの一話完結物をむりやり4話分つぎはぎしているので、無理が生じるのはしょうがないのだろう。

ヌイ(江角マキコ役)のエピソードをなぜひっぱるのかが、解せなかった。

虹郎のエピソードがロードムービー的でとても爽快だったので、そこで終わらせればいいのにと思った。

で、考えさせられた点だが、大きく分けて二つある。

■ 里山かオクヤマか

一つ目は、日本の自然の表現について。

マンガ版『蟲師』は、舞台となる自然を、多分、意図的に日本昔話的な「里山」的なものとして描いている。

しかし実写版の方は、意図してか否か、針葉樹林(植林された杉林と原生林)として描いていて、これは民俗学的にいえば、「オクヤマ」にあたる「里」とは切り離された山林だ。

大友監督は、なぜそのように自然を描写したのだろうか。

ひとつには幽玄な感じを演出するためには里山よりもオクヤマの方がいいということがあるのかと思う。

しかし、オクヤマというのは、得てして山水画的なものになってしまい、日本的というより汎アジア的な印象を見る者にあたえてしまうのではないだろうか。

もうひとつ考えられるのは、日本の里山といのは現在、ものすごく荒れ果てていて、ロケ地が見つからなかったのかも、という理由である。

実際、燃料革命以後の里山というのは、経済圏、生活圏的に、ほぼ無用の地となってしまっていて、植林or不法投棄のための場所になってしまっているわけだから、絵にならないというのはあるのではないかと思った。

■ 徒歩移動と別れの表現

自然表現の問題のほかに考えさせられたのは、旅と別れという問題。

時代設定的には鉄道がそこそこ発達している時代だが、マンガ版も実写版も、徒歩移動がメインのメソスケール(中地域)の地域を舞台としている。

マンガの方は、日本昔話的にあいまいな表現でとどまっているのですが、実写のほうはかなり確信犯的に宮本常一的な徒歩移動の世界を打ち出していて、そこが新鮮でした。

以前映画版『NANA』における鉄道について考えたことがありましたが、

映画『NANA』を鉄道映画として観る

それに比すならば、映画『蟲師』は徒歩移動映画である。徒歩移動ロードムービーというジャンル(黒沢映画ってわりとそういうところあるな)に属するといえなくもない。

シーンとしては、虹郎とギンコが分かれ道で別々の道をたどり別れていくシーンが、とても切なくてよかった。

鉄道の扉がしまって列車が動き出すとか、車の方向が変わって視野から思い人が消えていくとか、近現代的な演出ではなくて、別れの挨拶を交わして、それからテクテクと歩き出してわかれるというのは、それなりに味わい深いものである。

■ そのほか

あと、キャスティング面では、オダギリジョーはそつなくマンガのキャラをこなせるのですごいというのと、蒼井優は田舎の旧家の娘役もはまるなぁ、というところだろうか。   

マンガ版は万人にすすめますが、実写版は、理屈っぽく、かつ民俗学的知識のある人でないと楽しめないかも、です。

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2007年2月26日 (月)

ドリームガールズと脳味噌の中の引き出し

ここのところいろいろ忙しくて映画を観に行く時間がなかったのだが、ようやく時間がとれたのでアカデミー賞などで話題の映画、ドリームガールズを観てきた。

この映画はミュージカル仕立ての映画なので、例によって音楽関係語彙の乏しい私には、なかなか評することが難しい映画ではあるのだが、いい映画だった。

多分、「ソウルミュージックとはなんぞや(クワッ)」、といったところが、物語の底流にあるようなのだが、どうにもそこらへんの知識が不足していて、よくわからず、ひたすら

「みんな、歌うめ~~~~~~」

というところで圧倒されるだけであった。

たとえるなら和田アキ子の原液にひたされているような気分とでもいうべきか?

(R&B=和田アキ子という図式が脳味噌にこびりついているので)

私は洋楽にはとんと疎いので、エフィー役の人がやたらとパワフルなのは、

「ウーピーゴールドバーグみてぇだな」

という脳味噌の引き出しにおさめて、割と納得できたのだが、ディーナ役の人が、細いのにやたら声量があるのにはびっくりした。

この人が、ビヨンセという人であることは、宣伝などで知ってはいたが、私の脳味噌の中の引き出しのなかでは「ビヨ」で始まる人名が、ビョークとビヨンセの2つあって、ふたりとも歌がうまいので、どっちがどっちだか、どうも判別ができていないのである。

ふたりとも映画にでているしね。

今回の収穫は、ビヨンセの所属するグループは、ディステーニズ・チャイルドというグループで、この人達は、かつてチャーリーズエンジェルで歌をうたっていた人達であることを、改めて認識できたことである。

ドリームガールズもチャーリーズエンジェルも女子3人組というところで、覚えやすい。

しかし、肝心の映画の方のクライマックスシーンのドリームガールズ解散のシーンで、

女子3人組解散=キャンディーズ解散

という引き出しが開けられてしまい、映画のシーン展開とは全く関係のない「微笑み返し」な印象が混線してきたのは、我ながら短絡的であった。

普通の女の子に戻りたい映画ではないのに、そういう文脈で「よかったねぇ」という感動の仕方をしてしまうのは、いかがなものかとは思う。

女子3人組というのは、なかなかに奥が深いものである。

しかし、映画館を出て、このように女子3人組について考察を巡らせているうちにたどり着いたのが、

三人祭り

であるのは、ますますもっていかがなものか、である。

おそるべし、つんく。

おそるべし、石川梨華。

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2007年1月30日 (火)

映画『愛の流刑地』を観て、フットボールに思いを馳せる

観てきましたよ。

総天然色oyaji-movie、アイルケこと『愛の流刑地』。

予想に違わず、日経新聞読者層を想定したoyajiパラダイス度ぶっちぎりな映画で、なかなか楽しめました。

内容は、まぁものすごく要約してしまえば、高校の倫理でならったような気がする「エロスとタナトス」のお話で、宇野コウイチロー風に表現するなら、「わたしったら、すごくイイと死にたくなっちゃうんです。」みたいな、身も蓋もないお話。

あ、あと「愛は法廷では裁けない」みたいなテーマもあるみたいですが、「それでもボクはやっていない」を観てから観ちゃうと、なんとも「そりゃ裁けませんよ、日本の法廷では!」みたいな気分になってしまうので、観る順番に注意した方がいいです。

キャスティング面では、津川雅彦と中村トオルの使い方が贅沢だと思いました。長谷川京子のところに、もうちょっと陰影を出せる女優をもってきたほうが味わい深かったんではないかとは思いましたが、ここは好みの別れるところでしょう。

あと、トヨエツをエロティックに演出するときは、薄いシャツをじかに着させて、サンダルでダッシュさせるのが基本、という法則を発見できたのも収穫。

ベストサンダルダッシュニストが、日本サンダル協会によって表彰されるとしたら、間違いなくトヨエツは殿堂入りしますな。

映画の内容は、タイトルは『愛の流刑地』なんですが、『エロス(しかも快楽方面)の牢獄』みたいな感じです。

なるほど、と感心したのは寺島しのぶ演ずるところの冬香さんが、逢い引きを重ねていく過程で「私、先生に作り換えられてしまった(うろ覚え)」的なことをいうところ。

「作り換えられる」という語は劇中ではエロティックに響くわけですが、語の意味をそのまま町工場的に受け止めてしまえば、人間の快楽機械としての側面が、世の良識というリミッターを外して、かりかりにチューンナップされていくような感覚ということでしょう。

「機械」と表現してしまうと、「女性は子どもを生む機械」発言的な、人間性蔑視な感じにも受け取れますが、ことエロス方面に関しては、男女ワンセット(組み合わせは無限ですけど)は、信号の発信/受信のフィードバックを繰り返す機械という側面はあるわけですな。

しかし、快楽信号のS/N(シグナル/ノイズ)比は、どうやったってセンサーの感度以上には上げられないわけで、逆にいえばS/N比がセンサーの感度の上限に達したとき、機械は「もうこれ以上は無理でがんす」という状態になってしまうわけです。

そこから先はノイズなきクリアなパラダイスを永遠に生きる(=死んでる)状態になってしまうわけですな。

ここに零戦の教訓(開発段階でチューンナップしすぎて伸びしろがなかった)が想起されます。

で、ここでフットボールに話に無理矢理切り替えると、フットボールチームというのは、開幕時にチームとしてのチューンナップ度をどの程度に設定しているんでしょうかね。

長いリーグ戦を闘っていく上で、開幕時にカリカリにチューンされているようなチームは、あっという間に研究されてしまうわけで、シーズン中にチューンされていって、「作り換えられて」いくような、冬香さん状態のチームが、セクシーなよいチームなんだと思います。

すくなくとも、シーズン途中でタナトスに魅入られ、死んじゃってるような状態になって「Jの流刑地」(J2?)に送られちゃうようなチームは魅力的ではないでしょう。

と、無理矢理フットボールネタに接続してみましたが、いかがでしたでしょうか?

(と、問いかけるほどうまいこと展開してませんがよ)

月曜だってのにユナイテッドシネマは割合混んでいました。

職業体験の中学生にチケットをもぎられたときは、ちょっと、「こんな大人になるなよ」みたいな気分になりました。

つ~か、中学生にアイルケのもぎりやらせんなよ、ユナイテッドシネマ。

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2007年1月22日 (月)

『ハッカーと画家』を読んでから映画『それでもボクはやっていない』を観た

昨日、koikel氏宅の飲み会に参加できず、かわりに職場の面々と駅南でギネスビールを痛飲し、へべれけになって早寝したため、本日は早起きする。

最近は、その日やることを手帳にメモるようにしているので、わりと生産性があがっていて、午前中に、洗濯&ソフトバンク携帯ホワイトプラン変更などを済ませてしまう。

我ながら有意義な休日。

で、余勢をかって、大河津分水河口に存在しているかもしれない木造和船の確認にいくため、海岸沿いにドライブを敢行。巻のラーメン屋駒鳥でラーメン&餃子を食って、大河津分水へ。

苦労して河口の砂浜まで下り、大河津分水河口両岸とも木造船がまだ存在することを確認する。これ余人にはあんまり感動できないことなんだけど、一部研究者には、「くわっ!やはり、そうであったか」くらいの衝撃をもたらす事なんです。

で、すっかりGoodJob!気分になったので、最近できた弥彦の日帰り温泉施設「さくらの湯」にいって岩盤浴などを楽しみ(つうか、夏場の我が家の暑さの方が厳しいぜ、岩盤浴さんよ〜)、身も心もさっぱりして、新潟市内まで戻り、ユナイテッドシネマで『それでもボクはやっていない』の券を購入。

上映まで時間があったので、読みかけのポール・グレアムの『ハッカーと画家』を読みながら開場を待った。

『ハッカーと画家』は、天才級のプログラマーが、如何にシステムというものを可変なものとしてとらえているかが、しみじみとわかる本である。

私ら凡人はパーソナルコンピューターのOSにしても、WEBのあちら側のシステムにしても、なにか神がかった魔法のように感じてしまうが、すぐれたハッカーは、そういったものが可変であることを、ごく当り前に、呼吸するように感じているらしい。

さらに、彼らは計算機の世界だけでなく、システムと名の付くあらゆるものを可変だと考えているようで、ただひたすら感心しながら読み進めた。

賢い人の書いた本を読むと、その賢さの一端にふれることができて、自分も賢くなったような高揚感がありますな。

で、そういった高揚感に満ちた気分で『それでもボクはやっていない』を観始めて、日本の行政&司法システムの洗練されてなささ加減にすっかりとほほな気分になる。

男性諸君の多くはこの映画をみて「いやぁ、痴漢容疑で警察署に送られちゃうと、とっても恐ろしいですね、さよなら、さよなら」という教訓を導き出すのだろうが、ポール・グレアムの本を読んだ直後に観賞すると「you!そのシステムhackしちゃいなYO!」みたいな気分になるから不思議だ。

というか、すべてのシステムは、よりよき未来のためにハックされるべきだし、司法システムだって例外ではないはずだ、と激しく思った。

こういった考え方は、政治的に正しくないんだろうかねぇ。

そんなわけで、来週の月曜は、職場の有志と、現在上映中のもうひとつの法廷劇『愛の流刑地』を観に行く可能性大。

総天然色Oyaji パラダイスムービーとの呼び声高い「アイルケ」。

いまから、どきどきしちゃうな〜(笑)。

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2007年1月17日 (水)

映画『パプリカ』を観てその王道っぷりに圧倒される

映画『パプリカ』は、圧倒的な映画である。

その圧倒的な感じが万人に共有される類のものではないのがなんとも残念。

筒井康隆の原作を読んで、映画『アキラ』などを観て、サブカルチャー系の読書経験を積んできた人間であれば、「そこまで王道で来ますか。」という気分に陥ること請合の作品である。

映像のあらゆるところが、本歌取り的な遊び心に満ちていて、しかしきっちりとストーリーやギミックを押さえているところが心憎いばかりである。

例えば、正月に観たこちらも快作であった『鉄コン筋クリート』などは、映像表現の心地よさが印象に残り、ストーリー展開は少年ジャンプ的な印象しか残っていないが、『パプリカ』は映像表現の心地よさ+ストーリーの心地よさが計算され尽くされていて、ただただ圧倒される。

音楽と映像とのシンクロっぷりも泣かせるほど直球勝負で、好ききらいが分かれるところなんだろうが、わたくし的にはとてもよかった。

フットボール的にいえば昨年の浦和よりも全盛期のジュビロっぽい感じといえばいいだろうか。

ともあれ、万人受けしなさそうなのが実に惜しい。

「みてみて!」と勧められないことは分かっているが、個人的には、女房とか、馬の鞍とか、あらゆるものを質にいれても観るべき作品である(どっちももってないけどよ)。

あんまり話題になっていないみたいなんで、早く二度観しなくちゃという気分です。

二度観は『フラガール』以来ですわ。

あ、今年もよろしく。

補強の具合がアルビらしくなく堅実なのが今年のストーブリーグの特徴ですなぁ。

と、最期はブログの本来の趣旨に戻ってみたりなんかしたりなんかしちゃって。

(新春から広川太一郎オチ)

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2006年12月23日 (土)

『たそがれ清兵衛』をTVでみて「サムライ」感覚を疑う

劇場でみて号泣した『たそがれ清兵衛』が金曜ロードショーでやるというので見た。

一度見ているわけだが、一世を風靡した名作だけあって、真田広之は凛々しく、宮沢りえは美しかった。

宮沢りえは、この映画で薄幸系女優の座を確かにしたような気がする。

で、ここのところ考えている、職業軍人と兵隊さんという図式でちょっと考えてみたんですが、侍というのは前近代とはいえ、立派な職業軍人なわけで、人の命のやりとりを生業としている身分なわけです。

明治大正昭和と時代が過ぎて、ようやく平和な時代になったにもかかわらず、「サムライ」というの語がポジティブな価値をもっているのは、なんでなんだろうか。

サムライ・ブルーとか、サムライ(by沢田研二)、サム・ライミ(スパイダーマンの監督ね)とか。

察するに、江戸幕府のサムライ=宮仕え=サラリーマンという連想が働いて、世に勤め人の共感を得、さらに最期の最期には人切り包丁で解決しちゃうというカタルシスが、現代のサラリーマンにはできないことなんで、にっくき上司や取引先を、ばったばったとなぎ倒してしまう妄想を喚起し、たまらんのだと思う。

しかし一方で、先日のエントリの『硫黄島からの手紙』なんかの帝国陸軍の下士官などを賛美する気配はない。

近世、近代の違いはあるとはいえ、おなじ職業軍人ではないか?

理不尽ではないのか?

そもそも、日本社会の中でサムライという語がネガティブな感覚をもった時代というのはあるのだろうか?

あるとしたら、第二次大戦直後とか、左翼運動華やかなりし頃だろうけど、あんまり聞いたことはないなぁ。

このように考えると、まことに不思議なことである。

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2006年12月21日 (木)

硫黄島二部作を観て「ラストオブ日本帝国」を邪推する

クリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作を観てきました。

天皇杯も赤黒の勇者(札幌ね)にあっさり負けてしまい、シーズンオフに突入ということで、恒例の長文映画評。

■ 戦争映画の舞台としての硫黄島の戦い

この二部作は第二次世界大戦の硫黄島の戦いを描いた作品である。日米両国の視点から描いた2つの作品というところが話題になっている。

硫黄島の戦いというのは、大変な激戦として戦史に記憶されている戦いだそうで、それは上陸を急ぎすぎたアメリカ軍の戦術的なミスと、栗林中将の日本軍らしからぬ?合理的な戦術とがかみ合って生じたものだそうだ。

激戦=損耗率の高い戦い、というのは、職業軍人や軍需産業関係者、さらには軍事マニアのみなさんにとっては大変興味をそそられるものなのだろうが、一兵士や、銃後の家族にとってみればたまらないものだと思う。また国家戦略的にも、できれば激戦は避け、楽勝につぐ楽勝(あるいはあっさりと敗戦?)で戦争を終わらせることのほうがスマートなのではないか?

しかし、戦争映画の舞台としては、激戦は魅力的である。

軍人の知恵と力を尽くした「戦い」というものを描けるからである。

さらに硫黄島の戦いの戦争映画の舞台としての魅力は、第二次世界大戦の戦闘としては珍しく、現地住民というファクターが小さいところである(島民が早くに疎開できたので)。

第二次世界大戦の日米の地上戦としてはほかにはサイパンの戦いや沖縄戦などがあるわけだが、どちらも民間人を巻き込んだ悲惨な戦いである。こういった舞台を選んだら、アメリカ映画の大きなテーマであるベトナム戦争と重なってしまい、ストレートに戦闘を描くことはできなかったのではないだろうか。

■ 今なお存続する軍隊と今はなき軍隊の物語

二つの作品は、大枠のところでは戦争の不条理さを訴え、戦没者を追悼する点で合わせ鏡のようになってはいる。しかし、細かくみていくとテーマとしている問題が「巧み」に?ずらされていることがみえてくる。

アメリカ側の視点で描いた「父親たちの星条旗」は、アメリカ合衆国という国家と兵士と国民の物語である。

対して、日本側から描いた「硫黄島からの手紙」は、大日本帝国の将校と下士官と兵士の物語である。

民主主義国家か全体主義国家かを、とりあえず不問として、力の強い順にかく要素を並べていくと、

 国家 > 軍隊(将校>下士官>兵士)> 国民

という順番になる。

「父親たちの~」では、激戦を闘った軍隊(海兵隊)の兵士たちが、戦費調達のための国民へのプロパガンダに利用されてしまうことの不条理さがテーマとなっている。

ポイントは、国家、兵士、国民とも、現在のアメリカ合衆国のそれらに継続されているところだ。

戦勝国なんだから当然なんだけど。

一方、「~手紙」のほうは、「いかに負けるか」という極限状況のもとにある軍隊における将校・下士官・兵士たちの絆とあつれきが描かれている。

ポイントは、この軍隊は、現在ではもうなくなってしまっていて、過去のものとなっているところ。

敗戦国なんだからやむなしです。

ともあれ、日本列島上に存在した(する)二つの近代国家である大日本帝国と日本国、そしてそれぞれの国民がどのような関係にあるのか、という難解な問題を中抜きにして、今はなき大日本帝国の軍隊の中で物語が完結しているところが、なかなかに巧妙だと思う。

われわれ日本国民は、この二部作を、戦勝国vs敗戦国の物語としては、多分みない。

なぜなら二つの作品には、国家vs国家、国民vs国民という図式は存在しないからである。

二つの作品はただ彼岸の軍隊と此岸の軍隊でのみ、つながっている。

日本国にすむわれわれは、この二部作を、勝った軍隊(withいろいろ大変だったみたいね感)と負けた軍隊(with滅びの美学)の物語として受け取ってしまう。

■ 結局、西部劇なんじゃねぇのという邪推を展開してみよう

ひるがえってアメリカ合衆国民のみなさんはどのように、この二部作を受け取るのだろうか?

アメリカ合衆国民ならぬ我が身なれば、まったく想像もつかないので、以下はまったくの邪推ですが、多分、「父親たちの~」の問題意識は、現代のイラク問題なんかと関連づけて受け取られるんではないかと思われる。

国家権力と国民との対抗というきわめてUSA的なテーマだ。

これはまぁ万人受けできる推測だと思う。

では、「~手紙」の方はどうか?

ここからが邪推。

つらつら考えるに、結局、「~手紙」の帝国陸軍は、ハリウッド西部劇のネイティブアメリカンのみなさんの役割を負わされているんではないだろうか?

近年の作品だと「ラストオブモヒカン」(※西部が舞台ではないけどね))とか「ダンスウィズウルブス」に登場する、強敵で独自の美意識や倫理観を持っているんだけれど、結局ヨーロッパ文明人に負けてしまうひとたちの役割を、である。

映画史的に整理すれば、カリフォルニアまでやってきたカウボーイたちが勢いあまって、太平洋上までやってきて、硫黄島で戦争をしているという図式で考えると平仄が合うような気がする。

西部劇のヒーロークリント・イーストウッドの作品だし、「父親たちの~」の方ではアイラ役のピマ族出身兵士が一番苦悩しているのも暗示的だ。

邪推を重ねれば、アフリカ系アメリカ人のみなさんが主要キャストに登場しないのも西部劇的なんじゃないだろうか。

ここで表題に書いた「ラストオブ日本帝国」にようやくたどり着きます。

つまり、まつろわなかった先住民の歴史を称える映画なんではないかという見方も出来るのではないでしょうか。

 

このように邪推すると、現在の日本国がネイティブ日本人の居留地のように思えてなかなか新鮮ではあります。

■ おわりに

ともあれ、このように補助線をひきまくって、邪推を交えて観ていくと妙なところまで行き着くこともできる、なかなか味わい深い二作品です。

DVDで、ヨーロッパ戦線を描いた『バンドオブブラザーズ』や、長淵剛の歌声がいい意味でも悪い意味でも耳に残る2005年作品『男たちの大和』(!)などを観たりして予習していくとさらに味わいがますものと思われます。

しかし、中村シドウは、ステレオタイプな日本兵ばかり演じてるなぁ。

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2006年10月 3日 (火)

映画『フラガール』・第二次産業(鉱業)・「美しい国」

■ 新潟市内の第二次産業(鉱業)

学校の授業みたいに書き出してみよう。

このブログの読者のマジョリティである新潟市民の皆さんは、新潟市内の鉱業について、どの程度の知識をもっているだろうか?

新潟県で育たなかった私には、郷土の産業について、どの程度の知識を義務教育期に教わるのか分からない。が、このたびの合併によって、新潟市は従来の天然ガスにくわえ、石油の油井と銅山と採石場をもつこととなった。これは、少々おどろきなのではないかと思う。

ここ、ロシアかベネズエラか、ってなくらいの天然資源っぷりなのである。

もっとも、どれも廃されて久しいのだけれど。

石油の油井は、新津丘陵に(石油の里公園案内 で勉強できます)、銅山と採石場は旧岩室村の間瀬にあった。幕末~明治期にはどれも地元の産業構造を支える大産業であった。

たとえば、燕の金物産業なども間瀬銅山の産出する銅があったから成長したという説もあるくらいなのだが、残念ながらどれも昭和戦前期に衰退してしまい、いまでは歴史の片隅においやられているわけである。

鉱業というのは、そういう哀しみをもった産業なのかも知れない。

■ 映画『フラガール』における産業構造の転換の描き方

映画『フラガール』を、味もそっけもなく要約するなら、第二次産業から第三次産業への転換と、日本人の身体性をめぐる歴史の叙述、ということになる。

こんな要約を読んで、「そうか、観に行かなくちゃ!」と思う人は、病院にいって看てもらったほうがいいと思うが、ラブストーリーでもなければ、青春ビルディングスロマンでもないことは確かだ。

良質のコメディという側面もあるが、ウェットな部分は抑制されている。

舞台は衰退期の常磐炭坑。

常磐炭坑について詳しく知りたい人は、いわき市石炭・化石館 にいって勉強するように。

ボタ山の上で、フラダンサーの募集について語り合う娘二人というところから物語が始まる。

このシーンで、まず、画面構成のちょっとびっくりする位の単純さと、フィルムの質感のざらつき具合に引き込まれる。

それらによって、この映画が、単なるダンス映画ではなく、日本の第二次産業へのオマージュなのだということが伝わってくる。

個人的には『フォレストガンプ』で、主人公が走り出すシーンの爽快感が一番強烈なんだけれど、『ウォーターボーイズ』、『スウィングガールズ』、テレビなら、この前終わった『ダン☆ドリ』など、ダンスや演奏などをテーマとし、かつ下手っぴいが身体をうまくコントロールできるようになっていく爽快感で盛り上げていくスタイルというのは、ジャンルとして確立している。

が、『フラガール』はそういう構成の話であるにもかかわらず、そういう風にはあまり盛り上がらない。

ラスト近くの蒼井優のソロダンスは迫力があるが、それは下手っぴいという身体性のギプスから解放される爽快感ではない。

むしろ、ストーリーが盛り上がるのは、炭坑の人々がハワイアンセンターを受け入れ、自らの生活や価値観の基盤である「ヤマ」というギプスを外し、相対化していく過程である。

蒼井優の演じる主人公、紀美子は、家族の助けも支えもなく、孤独の中で自らの身体性を変容させ、フラダンサーとして成長していく。

その過程で、母親(富司純子)や、兄(豊川悦司)は、紀美子の努力と成長をどちらかというと、やむなく、しかたなしに、哀しみと諦念にみちた表情で、受け入れていく。

この映画の特筆すべきところは、第一次産業的な相互扶助が成立し得ない鉱業の世界を舞台としていることを、確信犯的に自覚しているところだ。

農村でも、都市でもない、ヤマの町。

現在の日本社会は、そういった世界を忘却の彼方へ沈めようとし、わりと多国籍かつマージナル(境界的)なスタッフによって製作された映画『フラガール』はそれを押しとどめようとする。

おそらく、グローバルな共感を得られる感覚というのは、映画『フラガール』の舞台である「ヤマ」の世界なのだが、グローバリゼーションの中で、文化資源さらには観光資源としての日本のローカリティを売り出していこうとするなら、まっさきにヤマの世界は忘却しなければならない。

皮肉といえば、皮肉なねじれである。

■ 「美しい国」について、第二次産業という視点から考える

ここのところ、新首相の掲げる「美しい国」について考えている。

英訳するとどうなるのかと思って、ニューヨークタイムスのWEB版にアクセスしてみたら、

Beautiful Country

なんだそうである。

率直にいって、こっぱずかしい。

ビューティフルときたら、サンデーな世代であるわれわれにとって、ビューティフルカントリーはちょっと勘弁して欲しいところである。

さらに、ドイツ語では、

ein schönes Land

なんだそうである。なんか、ちょっと、ナチっぽい方へ、いっちゃってる感じがするなぁ。

ま、ともあれ、「美しい国」という語のイメージには、第二次産業は含まれておらず、第一次産業と第三次産業しか含まれていないんだと思う。

第二次産業は、人間を孤独にするし、公害をまき散らすし、デラシネ(根無し草)労働者の連帯とかを生み出してしまうから、あんまり「美しく」ないんではないかと思うのだ。

しかし、私が暮らす新潟市にも鉱業の痕跡はしっかりと残っているし、工場群は毎日さかんに煙を吐いている。

それらをみないことにしては、先人達のご苦労に申し訳が立たないというものである。

こういう発想法というのは、保守的なのか、リベラルなのか、どうにも自分の立ち位置がわからないが、美辞麗句で、都合よく直近の歴史の不整合な部分を覆い隠すのはよろしくないのではないか。

■ おわりに

ちょっと堅い内容なってしまいました。

ま、いい映画をみると、いろいろと物思っちゃうものです。

フットボールファンと、第二次産業という問題も根深いものがあると思うんだが、これはまた別の機会に。

あ、映画は、蒼井優タンのいわき弁と、フラダンスの腰の動きをみるだけでも、十分もとがとれますよ~◎◎

と、唐突に柔らかめにして、バランスをとってみたりして。

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2006年9月28日 (木)

映画版「笑う大天使(ミカエル)」を見てつじあやののCDを買いオシロスコープを思う

「てるてる家族」

「点灯虫(自転車屋に必ずといってもいいほどポスターが貼ってある)」

「スウィングガールズ」

の上野樹里と、

「CASSHERN(キャシャーン)(迷作ですな)」

「嫌われ松子の一生(名作ですな)」

「ハチミツとクローバー(原作とはちがいますな)」

の伊勢谷友介の共演ということで、原作も読んでいないのに、新潟市内のユナイテッドシネマまで「笑う大天使(ミカエル)」を観に行った。

まぁ、恒例の月曜メンズディ1000円を利用した、「そんなに観たく映画でも見ちゃうよ、だって1000円だもん」鑑賞法なんですが。

やはり、原作を読んでいないと楽しめない作品だったようで、「ここ笑うとこなんだろうなぁ」ということはわかるのだが、シンクロできなかった。

CGも、よくできているのだが、どうにも動きがぎこちなく、人形ぶりな感じでした。

まぁ、登場する女学生達がとてもかわいかったので、もとはとったということにしておこう。

で、スタッフロールのときに流れるエンディング曲が妙に印象的だったので、「つじあやの」という人が歌っていることを覚えて、帰宅後ネットで調べてみる。

で、昔プリンタのCMで流れていた山下達郎のパレードをカバーした曲をうたってた人だということが分かったので、翌日、久しぶりに万代シティのヴァージンレコードに出かけ、これまた久しぶりにCDを購入する。

最近は、特撮ヒーローものと、BGM用のジャズボーカル(かけるとマンガ喫茶にいる気分になれるので(笑))しかかけていなかったコンポに、CDをセットしてかけてみる。

つじあやのは、歌がうまい。

私の中で歌がうまいというのは、多分声質と歌唱法がマッチしているか否かという価値基準なんだと思われる。

歌のうまい人をあげよといわれれば、まっさきに井上陽水が思い浮かび、その次に水木一郎、堀江美都子などのアニメソングの歌い手がくる。

中島みゆきは、とても影響を受けているわりに、あんまり歌がうまいとは思ったことがない。声質の限界を超える過剰な歌唱法がいいんだろう。

ちなみに、水木一郎と堀江美都子の最強タッグが歌い上げる「斗え!忍者キャプター」は、名曲であるが、両雄並び立たずということわざを思い出させる「俺が!私が!」感あふれる怪作でもある。

で、つじあやのの歌のうまさであるが、まず声質がまっすぐで、その声質をわかってらっしゃる歌唱法であるところが肝なんだと思った。

とくに奥田民生とのデュエットで歌う「シャララ」(サザンのカバー)は、原曲よりも乾いた冷たさが強調されている感じで、秋の入り口のこの季節にはよくあうと思った。

つじあやのの声質は、多分音波としての波形がとても美しいのだと思う。

オシロスコープではかってみたら、きれいな波を打ちそうだ、と思った。

オシロスコープといえば、電子工作に凝っていた頃のうちの父親が、秋葉原のジャンク屋でへそくりの大枚はたいて買ってきて、それが母親にばれてしまい、その購入価格に対する性能のよさを強弁するも、家族の共感はえられずあきれられていたのを思い出す。

親父がAKIBA系(萌え萌えタウンになる以前だけどね)っていうのも、なんとも味わい深いものである。

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2006年6月 6日 (火)

臼歯的・犬歯的──映画『間宮兄弟』と『嫌われ松子の一生』を観て「歯」のアナロジーを思いつく

2週つづけて邦画を観るのは珍しいが、なんだかそういうことになった。

月曜日でメンズデイ割引だ、ということで映画館にいき、時間がちょうどよかったために、ぶらっと観た『間宮兄弟』と『嫌われ松子の一生』の二作品である。

前評判をあまり知らないままの鑑賞であった。

2本の映画は、映像的な趣向も、そのテーマとするところもまったく異なっていた。しかし、基本的な課題設定?みたいなものが驚くほど類似していた。

■ 土俵際の人々 ■

両作品は、社会の良識的な尺度から疎外されかけている「土俵際の人々」をどのように映像で表現するか、そしてさらに、受け手側があらかじめ用意しているステレオタイプをどのように融かしていくかという点で、課題を同じくする。

完全なアウトローでもなく、かつ彼岸と此岸を往還するヒーローでもなく、あくまで徳俵に足を残している人々というところがポイントである。

『間宮兄弟』は、中年の入り口あたりの、ありていにいってしまえばオタク気質の兄弟が主人公である。いわゆるオタク女子の方々を登場させ、不毛なる極限の人間生態系を描く、という方向に走らないところに、土俵際への意図が感じられる。

かたや『嫌われ~』の方は、愛を求める極と拒絶する極とを、いったりきたりする激しい女性が主人公である。

こちらは高度消費社会という日本社会の特性をあまり前面に押し出してはいないが、冒頭で、渋谷の街の繁華な様子と「夢」というキーワードを鮮やかに提示し、転じて主要な舞台である荒川河川敷を夢の残り滓の吹き溜まり的な場所として描写する。この対比によって、物語の外殻としてのそれを、意識せざるをえないつくりになっている。

ともあれ、どちらの作品の主人公も、今日の日本社会では肩身の狭い存在だ。

『間宮兄弟』の森田監督、『嫌われ~』の中島監督とも、技巧的な映像を駆使して「土俵際の人々」を描いていく。

両作品とも、宣伝惹句では、優しさとか、人生とか、ヒューマニティに満ちたことばがあふれているが、映像表現的にはそういったことばで想起される紋切り型からはまったく自由であった。むしろ、容赦のない残酷さすら漂わせていて、そこが痛快であったし、逆に人間について深く考えさせられるところでもあった。

■ 他者を受け入れるプロセスとアナロジーとしての「歯」 ■

で、なにを考えたかというと、エントリのタイトルに示したように「歯」の問題である。

『間宮兄弟』の主人公たちは、他者と関わるとき、とても熱心に、そして誠実にことばとして理解しようと試みる。その様子を監督は価値判断を加えずドライに描いているが、そういう理解の仕方というのは、とても臼歯的だと思ったのだ。

臼歯というのは、ご存じのように口腔内にいれた食べ物をすりつぶす役割を持つ。

オタク気質の人々というのは、他者をまず丁寧にすりつぶしたのちに受け入れる、というようなプロセスを好むのではないだろうか?

対して激情型の松子さんの方はというと、他者との関係構築を出会いがしらのインパクトをそのまま受け入れるかたちで試みる性向を持つ人物として描かれている。他者をすりつぶすように受け入れるというよりは、噛みちぎるように受け入れるという意味で、臼歯的というより犬歯的な印象だ。

犬歯というのは肉食獣で発達している、いわゆる牙(きば)状の歯のこと。

世の中的には、草食動物vs肉食動物という分類で人間のタイプを分けがちですが、このアナロジーの欠点は”補食の問題”、つまり食われる奴と食う奴という関係性が生まれてしまうところにある。

慣用表現で「~を食い物にする」みたいな表現があるように、2者間の関係性に「食う」というアナロジーを導入すると、どうにも力関係が生じてしまうわけだ。

さらにいえば、そもそも人間というのは雑食なわけだから、存在の本質的な問題として草食vs肉食という軸をもってくることは適切ではない。

映画をみた帰り道でいろいろ理屈をこねて作品の内容を考えるのが、私の映画の楽しみのひとつなのだが、出来島(ユナイテッドシネマがある地名)から自転車で帰ってくる途中、突然「歯」のアナロジーを思いついたのが、自分的には発見だった。

なんだか、思いついたことを書いただけで、はやくも話がまとまらなくなってしまったが、個人的には『間宮兄弟』のようにありたいという心性が、自分の底流にあることが、よくもわるくも発見できた2本の映画でした、と無理矢理まとめてみる。

人にすすめたい両作品ではあるが、人が私と同じように理屈っぽく観ることは、多分ないだろうなぁ。

理屈抜きでも、まあまあ面白いですよ(とってつけたような勧め方)。

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2006年5月14日 (日)

圧制・抵抗・ヒーロー--映画Vフォーヴェンデッタをみる

久しぶりの映画の感想。

かつて女王であった(アミダラ姫ね)ナタリー・ポートマンが、強制収容されて丸坊主にされちゃうCMが印象的だった映画Vフォーヴェンデッタをみてきた。

映画がはじまるまで、Vフォー「バンペッタ」だと思っていたが、「バンペッタVampeta」は元ブラジル代表のボランチで、「ヴェンデッタVendetta」は、復讐という意味だそうだ。

まるで関係がなかった(笑)。

ストーリーの骨子は、圧制を敷く政権と、それと戦う謎の仮面の男と、さらにそれに惹かれる視点人物としてのヒロイン(ナタリーポートマンね)が繰り広げる、復讐の物語、みたいなところ。

オペラ座の怪人、あるいはレジェンドオブゾロ的な定番のものだが、仮面の下が暴かれないというところがミソであるらしい。

仮面ライダーや仮面ボクサーといった仮面ものというジャンルに慣れ親しんでいる日本人にとっては、仮面の下の人物の人間としての苦悩を描かないのは、すし屋にいってガリを食わないくらい味気ないものだが、わりとそこいらへんのこだわりはないようだ。

ネットで調べたところ、原作のコミックスはもうちょっと政治的にアナーキーなものをテーマとしているらしいが、映画版はいわゆる圧制と抵抗とヒーローの黄金のトライアングルで描かれていて、いささか単純であった。

ハリウッドで製作されたそうなので、さもありなんといったところか。

■ 人間性を否定すること--隠される人間性とすりつぶされる人間性

20代のころ、よく強制収容所に入れられる夢をみた。

だいたい殺される直前に目がさめるのだが、鮮烈に脳裏に焼き付いていて嫌なものだった。

夢のイメージのネタもとは、ナチスの強制収容所を題材とした映画や,映画1984などだと思う。

とくにジョージオーウェルの『1984』は、小説版でも映画版でも、「ちょっと勘弁して頂戴」感にみちみちていて、私にとってはいまだにキングオブディストピアだ。

なのでフィクションの中での強制収容所~全体主義の描き方にはわりと関心がある。

「Vフォ~」の中の全体主義のいささか手ぬるいところは、圧制者が人間性をすりつぶしていくところを、利益や権力のためという風に描いていて、人間社会の本質的な欠陥としての他人の人間性をすりつぶしてしまう特性を描いていないところだ。

これは、おそらく圧制下の市民社会を、圧制を消費者として受け入れている社会として描いているからで、能動的に圧制に参加する市民というものを描かないこととバランスをとるためであると思われる。

そして、そのため、圧制・抵抗・ヒーローの三角関係が矮小化してしまい、仮面のヒーローの「隠された人間性」と、被圧制者の「すりつぶされた人間性」という、「二つの人間性の否定」という、わりと刺激的なテーマが、ほっぽり出されてしまうという残念な結果になってしまったように思う。

そもそも、この映画、圧制を前面に出しているわりには、「人権とは?」とか「人間性とは?」という問いかけが希薄なんですよね。

記号としてのマイノリティや弱者はわりと頻出するんだけど、たんなるエピソードで終わっていて、深みがない。

さらに巨視的にみれば、消費資本主義社会においては、上述の三角関係は成立しづらいということをはからずも露呈してしまっているようにも思える。

なんとなく抑圧されて、なんとなく抵抗しているという構図の中にはヒーローは必要ないですからね。

パロディとしてはそこそこ面白いかもしれないけれど。

ここのところのスタイリッシュなSF映画全体にいえることだけど、(イーオンフラックスとかアンダーワールドエボリューションとかたぶんウルトラバイオレットとか)、どうにも借りてくる世界観を換骨奪胎しすぎている臭みが強すぎるのでないでしょうか。

マトリクスはまがりなりにも世界をすっきりと描けていたと思うし、それゆえあそこまで人気がでたのだと思うが、2番手を狙う作品群の質が低すぎるというのは、かっこいいSFが好きなものとしてはさびしいものです。

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2006年2月21日 (火)

映画『ミュンヘン』を思いっきり遠回しに論じてみる

職場でおカイコさまの気持ちが話題になった。基本的に他愛もないバカ話だ。

おカイコさまの一生は不条理である。

おカイコさまは、生まれてから何不自由なく、好きなだけ桑の葉をたらふく食わせてもらい、室温なんかも快適に整えてもらって、みなに愛されてすくすくと育てられる。

そして、心地よくマユを作って、マユゴモリしてたら、いきなり煮られちゃうわけだ。

まさに不条理のきわみである。

書いてて、動物愛護的にもかなり問題なような気がしてくるくらいである。

■ おカイコさまの不条理な一生を人間に置き換えて教訓化してみる

考えるに、おカイコさまの不条理な一生は、純白のマユと糸にいろどられている(白いから「いろ」どられてはいないな)。

おカイコさまにとっての、マユと糸というのは、実に不思議だ。

当事者としては、体内の衝動につき動かされているだけなのだろうが、体内から分泌される体液かなにかを、固めたり延ばしたりして、糸状にし、そいつでぐるぐると我が身を覆っていくという気分は、人間にはちょっと、想像しがたいものがある。

そもそも、人間はサナギという状態にはならないから、まゆごもる必要もなく、感覚としてわかってしまったら逆に問題だ。

無理矢理、人間さまに置き換えてみると、口から出すという点で、おカイコさまの糸と「ことば」は似ていなくもない。

比喩としては、自分のことばで我が心をまゆごもり的に覆い隠すことはわりと簡単にできてしまうし、感覚としても分かる。「ことば」は他者とつながっていく糸のようにみえて、実はあんがい「マユ」をつくるための糸として発達しているようなところもある。

そういった意味で、ことばは、繊維産業的な「糸」ではなくて、動物の体内から分泌される糸にたとえることができる。

話をおカイコさまの不条理な一生に戻す。

おカイコさまは、なんでまた煮殺されるような目に会わなきゃならないのか。

それは、ごく単純化してしまうと、マユを作るための糸が、必要以上に強くて長持ちするからである。

もうちょっと弱かったり、すぐ溶けちゃうようであれば、人間さまも、わざわざ煮殺してまでそれを欲しがったりはしなかった、と思う。

このことから教訓として学ぶべきは、必要以上に強く長持ちするものは、それゆえに災厄を招くぞ、気をつけろ(やや賞味期限をすぎてますな。)ということだろう。

■ 映画『ミュンヘン』の背景にある「ことば」

さて、ようやく映画ミュンヘンについて。

この映画に描かれている流血の原因は、紀元前に発話され、記録された「ことば」にある。

具体的にいうとユダヤの聖典などですな。

これらのことばが延々と受け継がれ、複写され19世紀末のシオニズム運動につながり、イスラエル建国の基礎となる。

ちなみにこれらの記録が作られた頃、日本列島は、縄文~弥生時代まっさかりであった。その後縄文~弥生人たちは、歴史にあらわれることもなく、遺跡を遺して姿を消してしまっていることを考えると、文字記録をもつ/もたないの差は、かくも鮮やかにひとつの文化集団の命運をわける。

しかし、一方で、記録を持ち続けるということ自体が、「消えることができない」という、文化史的不眠症めいた状態を生み出しているとも考えられる。

やっかいなことに、記録は循環的に人々の心をとらまえてゆく。

ことばが記録され、それが人々を寛容や不寛容へと駆り立て、それがまた記録されていくという陰鬱なサイクル。

文字によって強化された「ことば」は、おカイコさまの強すぎる糸を体内より分泌する悲劇と同様のものを、人類自身にもたらしているのかもしれない。

映画『ミュンヘン』には救いがない。

救いのかけらすらない。

正義感も悪意も、人間の情愛すらも、暴走する不寛容に飲み込まれていくように描かれている。そしてスピルバーグは、それが現代社会の基本的なありようであることを、わりとわかりやすく示唆する。

ここから脱出するためには、全世界的なレベルで「ことば」のチカラを限定化し、だれもがそのチカラから逃れられるようにしていくしかないのかもしれない。

なんか、アンチ「ジャーナリスト宣言」みたいな結論ですな。

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2006年2月 1日 (水)

オリバー・ツイストをみて、貧しさについて考える

わたしら高度成長期以後の日本に生を受けた人間は、「戦争を知らない子どもたち」であると同時に、「飢餓を知らない子どもたち」でもある、らしい。

昭和30年代くらいまでは、日照りや台風などで、都市を含む平野とか盆地とかそういったけっこうひろい範囲で、その土地に暮らす人々全体に飢餓の予感みたいなものが漂うということがわりとあったらしいが、わたしらは、実体験として、「食えない予感に満ちた人々が群をなしてたくさんいる」という事態を目にすることはない。

オリバーツイストの世界は、19世紀前半の食っていけない連中がうごめく巨大都市ロンドンを舞台としてる。

人々は、貧しさゆえ悪事を働き、貧しさゆえおろかである。

ストーリーの骨子は、そんな世界でも、無垢で正直なオリバーツイスト君は、がんばって生きていくのだ!というキリスト教的道徳観に沿った展開をしていくので、あんまり感銘は受けなかったのだが、一番印象に残ったのは、

「貧しいと食っていくために悪いことしちゃいますよ。そういう社会で暮らしちゃうと抜けられませんよ」

というわかりやすくも粗雑な19世紀前半的資本主義社会の描写である。

「飢餓を知らない子どもたち」であるわたしらは、前回取り上げた「ALWAYS 三丁目の夕日」で描くところの

「貧しいけど明日があるさ!」

といったポジティブな貧困観をもっている。

これは、食いものがないという恐怖に裏打ちされていない、理念的な貧困観だ。

そもそも、ちょっと考えれば、明日が明るい貧乏さんというのは、右肩上がりの成長経済を前提としていることが分かる。歴史的にも地理的にも、

「今日貧乏であることは明日も貧乏であることの証明書をもっているようなもの。」

という状態の方が一般的である。

個人的な身体感覚のレベルでは、貧乏大学院生時代に、3日間くらい食い物の当てがない、というような事態に陥ったことが何度かある。それ自体は、まったく大した貧しさでもないのだが、それでも「貧すれば鈍す る」ということばの妙をしみじみと味わえた。

そのときに思ったのは、成功したプロボクサーとかクリエイターとかがいう「ハングリー精神」というのは、やはり右肩あがりを前提に しているということである。一般的に、明日をもしれぬ状況下においては、ハングリーな人は、おびえたり、卑屈になったり、動けなくなったりするものだ。

なので、上司などに「最近の若い者はハングリー精神がたりない」などといわれたら、速やかに、この一般ハングリー理論(?)によって反撃をすることをおすすめする。反撃したからといって、なにかいいことがあるとは思えませんけど。

2006年のお正月、「オリバーツイスト」が封切られる国や地域の何割が飢餓の予感を抱えていて、何割がそういった感覚を忘れているかは分からない。しかし、前者と後者では、画面から漂う空気にたいする皮膚の泡立ち具合が全然違うのだろうなぁとしみじみと感じた。

ちょっと、なにがいいたいのか支離滅裂ですな。むりやりまとめれば、「貧困」を深いレベルで共感することは難しいということでしょうかね。

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2006年1月12日 (木)

正月映画第一弾をふりかえる

気がつくと正月映画第一弾の大作はほとんどみている。

年末年始の休みが異常に長くとれたためだが、もっとほかにすることはないのか、自分につっこみをいれたくなるほどの出席率?だ。

そんなわけで、ほっぽらかしておくのもなんなので、見た順に感想など。

ALWAYS 3丁目の夕日

正月映画ではないですけど、年末に観たので。

昭和30年代というのは、市町村立の博物館業界でも、ひそかに注目されている時代で、いわゆる昭和懐かしブームのアンテナショップみたいな役割をはたしてきた小さい博物館は割と多くあります。

この映画は、徐々にコマーシャルベースにのっていく「昭和懐かし路線」が、一つ分野として確立した作品という位置づけになるのではないかと思います。

映像の中では、小道具ひとつひとつに考証がきいているという雰囲気がひしひしと伝わってきて、それはそれで心地よいのですが、同時代モノの感覚としては違和感を感じました。

私は昭和30年代を生きた人間ではないのですが、町並みの雰囲気というレベルでは、昭和30年代的なるガジェットに囲まれて子供時代を過ごしてきたということはできると思います。そういったガジェットは、ここ十数年で急速に失われていっているわけですが、それらがごそっと塊としてある「三丁目世界」は、もはや映像の中にしかない失われた世界なんでしょうな。

多分、江戸時代を舞台とする”時代劇”というジャンルがあるのと同じように、高度成長期を舞台とする”昭和30年代劇”というジャンルができるんでしょう。

あと、堀北真希が上手だった。

■ キング・コング ■

すでにエントリしましたが、異類婚ネタを思い出したので追記。

キング・コングが強烈にセクシャルなのは、ブロンド美人をひっつかむ大猿という、わかりやすい美女と野獣路線を突っ走っているからです。なにしろ映画の古典ですからね。鮮烈です。

で、ピーター・ジャクソン監督は、そのセクシーさを、前面に出さず、わりと屈折した感じで表現しているように感じました。セクシャルな意味合いを、コングとアン(ナオミ・ワッツ)の距離の取り方とか、肌のふれあい方とか、「それちょっとフェティッシュなんでない?」ってくらい微細なところににじませているところに、監督の好む理屈っぽい色気のようなものを感じました。

さらに、人間サイドの恋敵(と書いて「とも」とよぶ、ウソ)であるインテリ劇作家のドリスコル(エイドリアン・ブロディ)が、人間基準ではわりとマッチョにがんばっているのに、コングにはかなわな~い、というところにも、インテリ男の屈折みたいなものがあって、共感できました。

男女を問わず観客サイドに「こりゃ、コングの方についていくわな」と思わせるところが、この映画のファンタジー恋愛映画としての醍醐味なんでしょうな。

■ ハリーポッターと炎のゴブレット ■

ハーマイオニーが普通のきれいな女の子になり、ロンが普通のさえない男の子になった今、映画館でハリーポッターをみることのハードルはどんどんあがってしまってます。

かくなる上は、
「ハリーポッターシリーズは次回作より都合により、全編クレイアニメでお送りします。」

みたいな荒技をつかうしかないのではないだろうか。

屋根の上でのチェイスシーンにカリオストロの城へのオマージュを感じたのは私だけ?


■ 男たちの大和 YAMATO ■

2005年の最期に見た映画。いろんな意味で、「軽くヤバイ」映画でした。

以前エントリした『ヒトラー 最期の12日間』 が、第二次世界大戦をいろいろな意味で現代に直結させようとするスタンスの映画だったのに対し、この映画は、現代社会から第二次世界大戦を切り離して物語化し、あらためてつなげていこうとする感じがしました。

大艦巨砲主義なんて、現代社会に直結させるべきテーマだと思うんだけどなぁ。

枢軸系の国の残りである、イタリアとヴィシー政権直系のフランスが、戦後60年をどのように映像作品として描いているかを知りたいと思いました。っつうか、現代のフランスは戦勝国の末裔なんですけどね。

あ、イタリア作品だと『マレーナ』があった。イタリア的に屈折してて、共感できませんでしたが。

また、『プライベート・ライアン』あたりからレートがかわってきている、銃弾・砲弾と人体との物理映像表現の約束事(具体的にいえば、これくらいの口径の弾があたると、こういう風に人体は壊れるという、身も蓋もないこと)が、主人公についてのみ、かなり大幅に規制緩和されていて、脇役はわりと現代戦争映画風に死に、主役は昔の戦争映画風に死ぬというモザイク模様が、若干興ざめでした。

今日、世情はナショナリスティックな方向へ傾きがちということで、その辺の動静を占うという意味でも、やや気負ってみにいったのですが、案外普通の情緒的な日本戦争映画で、「最初からそういう風に観ればよかったなぁ」とも感じました。

世間的にはどういう風な評価なんでしょうね。

その後、脚本で一悶着あったことを知ったので、原作の小説の方を読んでみるか、思っています。

SAYURI "Memories of Geisha"

ハリウッド的には、「中韓日、みんなイースト・アジアじゃねぇか?細かいところを気にすんなよ、ちゃんと撮るからさ、ブラザー!」ってことなんだろうし、われわれの目もそういったハリウッド的な「イースト・アジア・オリエンタル」な感じにならされてしまっているということが分かった映画。

けんかしないで、なかよくしようや。

Mr. and Mrs. Smith

イイ男とイイ女が、バンバン鉄砲を打って、おうちを壊す映画でした。

なにもすることのない正月に観るのにもってこい?という意味では、清く正しい正月映画かも。

総評

そんなわけで、長文でしたが正月映画第一弾を総評すれば、

キング・コング以外は、並の出来です。

第2弾に期待!

って、わりと長文で熱心に論じてるじゃん。

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2006年1月 8日 (日)

古典的命題の塊としてのキングコング論

年末に書き始めてほっぽらかしになっていたキングコングの感想をエントリ。

なんだかんだいって今年の正月映画第1弾で一番のお気に入りはこの作品でした。

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ピーター・ジャクソン監督作品キングコングを観てきた。

予告編の映像をみて、CG満載の娯楽大作はなるべく逃さないように心がけている私としては、「みないわけにはいかぬ。」という気分でいたが、3時間をこえる長編である本作品をは、びっくりするほど古典的な作品だった。

■ わかりやすい2項対立の連鎖 ■

ピーター・ジャクソン監督の作品は、「ロード・オブ・リング」3部作しかみたことがないので、作風というのはあまりよく知らないのだが、とにかく展開の構成が緻密で、計算されている感じが強い。「ここ、CGびっくりするとこ」、「ここ、内面描写にひきこまれるとこ」みたいに、よくいえば、バランスよく作り込まれているし、悪くいえば、疾走感がない。

ま、長編大作だから疾走感だけで持たせるのは難しいのだろうけれども。

この作品には、ハリウッド・ファンタジーにありがちな、善と悪という2項対立はない。スターウォーズ的、あるいはスピルバーグ系の諸作品(というくくりも乱暴だけど)とは、そういう点で大きくことなっている。

善と悪のかわりにあるのが、野性と文明、男と女、ロマンとビジネス、野心家と夢想家、といった近代的な文学作品や映画で使い込まれた(古された)古典的な2項対立群だ。これらが、盛りだくさんに用意されていて、しかも、こういった対立を登場人物のそれぞれの関係性に巧みに、割り振っている。

一番わかりやすい対立が、野性と文明という対立である。

ストーリー的にも、序盤の平板な人間世界としてのニューヨークのシーンののち、中盤で、髑髏島の自然(当然、CG満載の過剰な自然です)を、これでもかというくらい見せつけ、後半でニューヨークの文明的な都市景観を、タテヨコナナメ、パンしたりズームしたり、スパイダーマンばりのカメラワークで見せつける構成になっている。

野性が文明に屈服し敗北するという古典的なテーマを、あえて枠組みをそのままに、今日の技術で再現しているところに、オリジナルにたいする過剰ともいえる敬意を感じた。

今日の世界は、19世紀末~20世紀前半の素朴な

自然vs文明

という図式を、

(個人個人のうちなる)自然vs(人間社会の到達点としての過剰な)文明

という形で反復しているともいえるわけだが、このように読み替えると、この作品は人間の内部にある自然のシンボルとしての「暴れる猿」みたいなものの敗北を暗示しているようにも思える。たしかに、今日の「自然」の代表格である、オーガニックブームや持続可能性問題なんてのは、野獣的というよりは、家畜的な臭みがただよっているように思われるから、「暴れる猿」は今日でもやはり殺されなければならないのかもしれぬ。

さらに、コングの殺され方が、ハリウッドが得意とする「大爆発or焼滅型」ではなく、機関銃による緩慢な衰弱~墜落死という珍しいパターンだったのも、最近の大作映画に登場する異形なるものの死としては印象的だった。ターミネーターもエイリアンも、ロードオブリングのリングも、最期の最期には焼かれて消えてること考えると、猿的なものには、衰弱死が似つかわしいということなんでしょうか。

かつて、赤坂憲雄が日本の怪獣映画における怪獣の最期と天皇制について論じていたが、それを思い出しました。

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あと、、キングコングのもう一つの命題である異類婚的命題についても、わりと考えたのですが、年を越して何を考えたのか忘れてしまったので、思い出したら書くということで、とりあえずこれでおしまい。

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2005年11月22日 (火)

カスタムメイド10・30を観て、サンフレッチェ広島の不在を思う

ガールズムービーという奴を、恥ずかしがらずに、きちんと観ようと今年から心に決めている(別に覚悟するほどのことではないな)。

昨年、深田恭子のロリ姿ポスターにちょっとひいて「下妻物語」を見逃し、激しく後悔したからだ。

そんなわけで、「NANA」に引き続き、木村カエラ主演「カスタムメイド10・30」を観てきました。

印象に残ったポイントは、

・木村カエラ、かわいかった。
(キュートな表情をきちんとキュートに撮ってるとこが大林宣彦的ですらあった。)

・妹役の西門えりか、若いのにドリュー・バリモアの風格。単に風貌が似ているだけか。

・柳沢慎吾を贅沢かつ的確に使っていた(キャバクラの客役)。

・広島市民球場で歌う奥田民生、かっこよかった。

・広島の町が素敵に映像化されていた。

・映像の作り方はスタイリッシュだったが、全体の構成とテンポはあまりよくなかった。

みたいなところでしょうか。

監督の略歴をみると、CMとかとっていた人のようだが、さすがに素人にも分かる画面構成のうまさだった。人を魅力的に撮るのも巧い。

ただ、いかんせん約2時間という時間を「かっこよさ」だけで埋め尽くすのは無理だ。ティムバートンだって、最低限のストーリーは用意している。

天使物という設定で、無理矢理ストーリーをつけていたが、そうとう厳しかった。本来なら15分くらい、かっこいいシーンをつなげて、映画館の大画面で300円くらいで見せて、1日30回上映とかいうほうが幸せな映画だったのではないかと思った。

こういうふうに書くと、遠回しな酷評ということになるのかもしれませんが、そんなに気に入らなかったわけではなくて、心地よい映画でしたよ。

木村カエラと広島が好きな人は見に行って損はないと思う。

しかし、ほんとがんばっているのに、広島の町の風景にはサンフレッチェさんは登場しませんね。カープとか、やくざとかは頻出するのに。

新潟でガールズムービー撮ったら、絶対アルビレックスは出てくると思うが、そうでもないのだろうか。やっぱフットボールが町の風景として馴染んでいくのには、まだまだ時間がかかるのでしょう。

願わくば、新潟には、清水、磐田の次くらいの順番でフットボールが馴染んだ都市になって欲しい。あ、浦和ってのはどうなんだろうね。あれは、都市なんだろうか、それともメガロポリスの一部なんだろうか。

ともあれ、映像的には、暗い空の下でボール蹴ってる方が絶対絵になるのではないかと、勝手に思われるので、気鋭の映像作家に、新潟で15分くらいの短編映像をつくってほしいなぁ。

思いつき文体なので、いまひとつしまりがない。

まとめる必要もなさそうなので、ここいらで了。

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2005年9月30日 (金)

『チャーリーとチョコレート工場』を観てProductsについて考える

別にカミングアウトするほどのことでもないが、こと映画や音楽に関しては、キラキラしてる作品が好きだ。

擬音ではなんなんで、あえて言語化するなら、作品性ではなくて、まずは、製品としての品質で勝負してくるような感じといえば、いいのだろうか。

包装紙の封を切るときのドキドキ、ワクワクした高揚する気持ちを持たせるような作品ともいいかえられるか。あ、また擬音使ってるな。

とにかく、過剰なまでにサービス精神に富んでいて、受け手に四の五のいわせる余地をもたせないような職人仕事?には、ほぼ無条件に敬意を表してしまう。

『チャーリーとチョコレート工場』は、私にとって、そんな、とてもキラキラした映画である。

映画の中でチャーリーがいう「お菓子に意味なんていらないんだ」という台詞は、そのまま、作品全体に反映され、「映画に意味なんていらないんだ」という強烈なメッセージを発している。

とにかく、全編、やりすぎってくらいサービスにみちている。有名な映画のパロディ、駄洒落、はてはベタベタのお約束の繰り返し。まるで、ハリウッドでつくられたコント55号か、吉本新喜劇である。

ティム・バートンの作品はわりと観ていて、この映画の意味のなさは、『マーズ・アタック』に通じるものがあると思った。ただチャーリー役のフレディ・ハイモア少年が、大人の俳優陣の、子供じみてのびのびとした怪演のなかで、ひとりまじめに役柄に入り込んでいて、そこがとてもキュートで、かつ『マーズ・アタック』の糸の切れた凧のような雰囲気を引き締めていた。

子役が締める映画っていうのも不思議ですな。

ティム・バートンの映画というのは、もちろん鬼才といわれる監督だけあって、art workとしてとてもすぐれている。特に映像的な美しさというのは、みていてとても心地よい。しかし、どうも、それ以前に製品としての完成度というところに、とてもこだわっているように見受けられるところが、なんとも好ましい。

われわれ、いちおう近代的な個人というのは、基本的に確立した「個人」として、判断しふるまわなければならないわけです。そのため、「個人」として判断したり、悩んだり、近代的恋愛を、近代的に投票したりしているわけです。

しかし、実際のところ、近代的な個人にとって、必要不可欠なのは、モダーンなart work たとえば、近代絵画や近代文学のようなもの、ではない。そういうものではなくて、products、つまり、近代工業製品として高い品質のガジェットこそが、我々を近代的な個人たらしめている、のではないのだろうか。

理由は簡単で、作品(art work)がない近代の生活はありうるが、製品(products)のない近代の生活は成立しえないから、です。

それらがなければ、近代ではないのです。トートロジーのようにみえて、実は結構奥が深い問題ですよ。

宮崎駿の一連の作品にも、そういう雰囲気は感じるのだが、自分の作品の品質について、職人的にこだわっているクリエイターというのは、そういった大前提を、意識的か無意識的かはわからないが、きちんとふまえ、自分の作品に反映しているように思う。

逆に、スピルバーグの手がけた作品には、そういった肌触りはあまり感じられません。映画としてあまりに効率的に作られているからだろうか?

ともあれ、映画でも音楽でも、製品として優れてます!というメッセージを発している作品を、もうちょっと、世の中的に、きちんと評価すべきだと思う。

日本のポップスでいうなら、tommy feburuary6の一連の作品の驚愕に値する製品的な高品質なんかについては、もっと、きちんと驚愕すべきです。

でないと、世の中が、ごく一部の難解なart workと、大部分を占める若手お笑いタレントのお手軽なTVショーのようなガジェットによって構成されるような、なんともバランスの悪いものになってしまう気がしませんか。

あ~、またも、読み手に辛い長文になっている。さらに、オチもついていない。

製品としての品質、最悪(とほほ)。

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2005年9月13日 (火)

映画『NANA』を鉄道映画として観る

CMのヒロインの声質に惹かれて、映画『NANA』をみてきた。

「まぁ、少女漫画原作の映画だから、そこそこの出来だろう。」という予想に反して、いろいろと考えさせられる映画であった。

とくに、今年の冬に観た、『水曜どうでしょう』のミスターこと、鈴井監督作品の『銀のエンゼル』と対比させると、現在の日本の若者vsその他の世代の地政学的な?断裂が、透けてみえて、とても興味深かった。


■ Railway to Tokyo 『NANA』における夢の鉄道■

『NANA』基本的には、東京で成功することを夢見る若者たちの、ファッショナブルで、30男にはやや甘味がきつすぎる青春ストーリーである。

「成功」ってなんだったっけ、と、アルジャーノン的に思い出せなくなっている時点で、もう、この手の映画に没入し、シンクロすることはできない。

ストーリーは、少女漫画的なサクセスストーリーを身にまとうヒロイン(中島美嘉)と、過剰に「おんなのこ」的であるがゆえに、逆に、受け手が感情移入しやすいタイプのヒロイン(宮崎あおい)の友情、という基本構造に、ちょっとビルディングス・ロマンの香りをまぶしながら展開していく。

なかなかに、青春映画で、手を抜いたところのない良質の商業映画に仕上がっている。

しかし、びっくりしたのは、ストーリーが展開していく中で、主要登場人物が、全員東京で成功するということについて、疑問をもっていないという決まり事があることだ。

登場人物たちは、軽やかに地元を捨てて、鉄道で、東京に出ていく。

この「鉄道」というのが、実にくせ者である。

鉄道というのは、たとえば飛行機や船に比べて、東京と地元がつながっていることを暗示している。TVドラマにおける飛行場や船のターミナルの扱いを思い浮かべれば、それはあきらかだろう。

さらに、移動手段が高速バスでない、というところにも少女漫画的なあまやかな暗示がある。

高速道路網を利用した、高速バスは、現代日本が到達した安定した豊かな社会の、貧乏くさいリアリティを象徴している。

端的にいって、高速バスは効率的すぎるのだ。

多くのフットボール狂のみなさん=非高額所得者の身体組成の5%ぐらいが、サービスエリアで摂取された物質で構成されいることからわかるように(証明不能)、高速道路網を利用した移動は、サクセスストーリーとは無縁である。

それに比して、鉄道には、近代~高度成長期の日本のロマンチックな夢の残滓がこびりついている。

『NANA』は、この残滓、--たとえば、それは雪の駅での別れであったり、立ち往生する列車の中での出会いであったりするわけだ--、を、これでもか、というほどスウィートにしたてあげる。

レールは、まっすぐに、鋼鉄の確かさで、成功へとつながってゆくように描かれる。

■ Railway to Tokyo 『銀のエンゼル』における弱々しい鉄道■

一方、『北の国から』とムネオのミステリアスな大地、北海道を舞台とする『銀のエンゼル』では、鉄道は、主人公のコンビニを経営する中年男の一人娘が、東京へ出ていくときにのる鈍行列車だけ登場する(だけ、だったかは、うろ覚えなので留保)。

そのほかの長距離移動を象徴する乗り物は、大泉君扮するドライバーが運転するコンビニ集配のトラックだ。

物語は、地方の中年男の、ある意味、夢を持たないことを強いられた日常生活と、その娘の、まっすぐな夢をみている高校生の、地方都市に閉じこめられた、かごの鳥のような日常とを軸に展開していく。

そして、クライマックスのシーンで、娘は家(の経営するローソンの店舗)を飛び出し、列車に乗って、東京へ向かう。

しかし、列車は、あっけなく大雪で立ち往生し、大泉洋扮するトラックドライバーの運転するトラックに追いつかれる。家に戻った娘は父の思いを理解し、その上で改めて、東京へと旅立っていき、物語は閉じられる。

『銀のエンゼル』の中の鉄道には、『NANA』における鉄道が描いてみせた現在形のロマンはない。

あるのは、かつて鉄道が運んでいた若者の夢が、現代社会では、コンビニトラックにおいつかれてしまうほどの強度しか持ちえない、という冷ややかな現実と、それでも、夢を追い続けなければならない若者の、厳しい現代社会への暗示だけだ。

■ Jリーグ観戦者の移動■

察するに、鉄道が、基本的に、共同体の引力との関係を保持しながら移動する個人の移動手段としてイメージされるのに対し、高速道路網というのは、共同体から切断された個人(デラシネというやつですな)を運ぶインフラのイメージをもっているのではないだろうか。

本質的に、日本の清く正しい労働者諸君(それは決して『NANA』の登場人物のようなサクセスストーリーを夢見る若者ではないはずだ。)によって支持されているJリーグは、鉄道網よりも、おそらく高速道路網に負うところが大きいのではないかと思う。

ホームの都市からバスに乗って出発し、サービスエリアで飯を食い、用を足し、アウェイの都市にたどりつき、バスを降りて、ゲームを観戦し、同じようにして帰ってくる日常が、Jリーグ(すくなくとも地方のチームの)風景である。

効率を追求して構築されたインフラの上を、この世でもっとも、効率とはかけ離れた集団を乗せたバスが疾走していくという、痛快な戯画。

こいつに、馴染めたとき、『NANA』が描くところの鉄道的な青春は、ひそやかに去っていくんだろう。

と、けっこう青春18切符を利用しているくせに、アンチ鉄道的に締めてみる。

また、長文になっている。しかもバランス悪し。

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2005年9月 5日 (月)

映画『ヒトラー 最期の12日間』雑感

 ちょっと気になっていた映画『ヒトラー 最期の12日間』を見てきた。

 この映画見所は、戦争は、複数の人間が介在している巨大組織によって遂行されているということ、そして、上層部の狂気と末端の狂気が、組織を介して伝達されているかのように見えて、実は、せいぜいオン・オフの微弱な信号が送られている程度で、あとは、いわゆる「ど~にもとまらない」惰性によって動いているということを、丹念に、偏執的に、ドラマに仕立てているところだと思う。

■対話を介した意志決定の省略■

 ドラマは、ヒトラーがこもる地下要塞を舞台に展開する。そこには、ヒトラーとその側近たち(ヒムラーとかゲッペルスとか)、愛人のエヴァ、そして主役である秘書のユンゲ嬢らがこもっていて、ソ連軍によるベルリン包囲に対して、作戦会議を開いたり、やけっぱちになったりして過ごしている(我ながらいいかげんな要約!)。

 ヒトラーは、総統だけに相当(だじゃれね)狂っていて、暴君とか狂王とかいった状態になっている。もっとも、完全に狂っているわけではなくて、権力者の部分が狂っていて、秘書や愛人に対してはわりと普通でしたというところが、ドラマの深みになっている。ここいらへんが、ヒトラーを悪魔的存在として見る人にとっては、美化しているということになるんだろうが、人間描写としては興味深かった。

 地下要塞にたてこもる部下のみなさんは、「総統、狂ってます」のひとことがいえないまま、ひたすら上位者であるヒトラーのいうことと現実とのすりあわせをはかっている。

 そこには、人間らしい会話や、ものごとを多角的に分析するための対話というものはなく、ひたすら上位者のことばと、現実と、そのはざまで苦悩する中間管理職という構造しかない。

 これは、ナチス・ドイツ特有の構造ではなく、あんまりうまくいっていない国の政府や、つぶれかけの大企業のかかっている病いと同一である。自分の頭で考えない、というよりは、考えたことを対話的に外部化、社会化しづらいので、しないという状況だ。そして、あとから「ほんとは、悪いことだと思っていました」といって泣いたりするわけだ。

■効率的な巨大組織の果て■

 ナチスやSSなどが、第二次世界大戦後も、一定の魅力を持ち続けている大きな理由として、その機能的なありようや、是非はともかくとして、目的に対する効率の追求というところがあると思う。

 第二次大戦を戦った国では、アメリカ合衆国とドイツが、それぞれに工業デザイン面などの面で大きな影響を与えているのは、両者が勝利という目的に対して、精神とか正義とかでなく、実は「効率」で挑もうとした、その姿勢にあるのではないだろうか。

 しかし、この映画では、ヒトラーの周辺は、ひたすら空回りする、かつて効率的に機能した組織の抜け殻として描かれている。負け戦がほぼ決定しているわけだから、当然なのだが。上層部のみなさんは、敗北寸前という状況下で、どのように負けるか、とか、敗戦後の社会に何を残すかなどの課題を設定し、効率的に取り組もうとはしない。かろうじて、シュペーアだけが、都市機能破壊命令を実行にうつさずサボって戦後に備えた程度だ。

 ドラマを見るものにとっては、かつて、いけいけどんどんで、ザッツ効率的!であったシステムが、現在の状況に対応できず、きしみながら分解していく様子というのは、悲劇というより喜劇としてうつる。しかし、当事者にとってはたまったものではないし、さらに、上層部のそういった機能停止が、市民にどえらい悲劇を生じさせることになるわけだから、笑ったり、怒ったりすりゃいいという問題ではない。

この映画から得た最大の教訓は、「巨大で効率的なものは疑え」ということだ。

 罪を戦争指導者や、扇動にあおられた市民に問うことは簡単だが、実は、ある一定の目的に対してのみ効率的な社会を設計し、実現してしまうところに、最大の罪があるのではないか。

こう考えると、第二次対戦中の総動員態勢(新聞とか金融とか)が、実はとけないまま、今日に至っている日本の社会が、ものすごくおそろしいもののように感じられる。

 「巨大で効率的なもの」の論理的な対極には「小さくて非効率的なもの」がある。もし、後者に、家族や友人関係などの効率を追求しない社会関係が含まれるのなら、疑わず、信じ、守るべきなのだろう。なんだかミニマリストみたいでいやな結論だが。

少なくとも、「巨大で効率的なもの」を礼賛しつつ、「小さくて非効率的なもの」も守るといいきっちゃうやつは、信用すべきではないね。

■その他 映画作品としての印象■

 歴史映画、戦争映画としては、とりたてて斬新な映像はなかった。素人なんで気づかなかっただけかもしれないが、旧ソ連の第二次世界大戦大作モノや、スピルバーグの『プライベート・ライアン』、『バンド・オブ・ブラザーズ』などの映像表現の文法からは、そんなに逸脱していないんじゃないかと思う。
 ヨーロッパの市街戦は、残骸が燃え尽きないので、戦うのも、再建するのも大変そうだ。映像として一番印象に残ったのは、暴走し戦闘を拒否する市民をリンチする市民兵のシーン。人間の業みたいなものを見せつけられ、印象に残った。我が身におきかえると、どっち側にもいそうな気がするので、とてもいたたまれない。そういう意味でも戦争を避ける方策について、もっと深く考えなくてはなりませんな。

書いていたら、すごい長文になってしまった。

人にわかる文章になっていないような気が多分にするが、とりあえずエントリ。

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