2012年4月11日 (水)

映画『サウダーヂ』は地方都市の未来を考える上で重要な映画であるので、サッカー関係は商店街のヴァンフォーレののぼりくらいしか出ないけれども観ておいたほうがいいと思います

首都圏で公開されてから半年くらいして、ようやく新潟シネウィンドでかかったので観てきた。

新潟の映画事情の難しさに、シネコン3館+シネウィンドに来るのか来ないのかを予測しなければならないというのがある。

たとえば開幕川崎戦の行きがけに観た『ヤング≒アダルト』などは、新潟ではかからないだろうという読みで新宿武蔵野館で観たのだが、あれも地方都市のお話なので、新潟で観た方が味わい深かったのではなかろうか、とは思う。

『コーマン帝国』は、東京に観に行くのが正解だろうかなぁ。

で、映画『サウダーヂ』は、昨年末の宇多丸氏のシネマ・ハスラーや菊地成孔氏の評論などで予備知識を仕入れており、ヒップホップムービーとして、あるいは日本のラテンカルチャーを描いた作品として斬新な映画だという情報はインプットされていた。

もっとも、私にはポップカルチャーや音楽的素養というものはほとんどないので、鑑賞後のこの観点からの感想は「そういうものか~」というくらいのものであった(笑)。

主人公UFO.Kがシャッター街をいらいらしながら歩いているときに口をつくフリースタイルのラップや、クライマックスのときに流れるラップには、メロディに乗らないむき出しのことばが、ビートにあわせて暴力的に流れ込んでくるかっこよさと、知らない怖いあんちゃんの論理構造がよく見えないアジテーションを聞かされているような所在なさ(笑)が、効果的に使われていたと感じた。

ちなみに後者は、私がヒップホップというジャンルに感じている居心地の悪さと、数年前くらいにアウェイゴール裏界隈に漂っていたなんともいえないヴァイブスに起因するものである(笑)。

で、映画を観ていて感じたのは、地方都市の閉塞感というのは、しみじみと第二次産業の衰退に起因するものなのだなぁという、ある意味当たり前の感慨である。

主人公達は、基本土木作業で日々の糧を得る「土方」を生業としている。

現代の日本では公共工事および大型工事の激減によって、産業としての建設業は、急激にしぼんでいるわけであり、したがって彼らの将来は暗いわけである。

日本の映画やドラマだと、土方(この言葉も歴史的には由緒正しいことばなんだけれども零落してますな)は、落ちぶれた主人公の落ちぶれ先か、未来を夢見る若者の資金稼ぎとして描かれることが多いのだけれども、この映画では、インフラを支えるリスペクトすべき業種として描かれている。にもかかわらず時代の波の中で衰退していくある種の伝統産業のように描かれていて、そこがとても新鮮であった。

準主人公のブラジルからの移民達は、職を求めて日本にやってきたのに総じて失業中という状況として描かれている。映画の中では、端々に電器メーカーなどの製造業から次々にレイオフされてしまっているように描かれていた。

これもまた第二次産業のしぼみ具合のあらわれであろう。

一方、うさんくさいながらそれなりにギラギラとした産業として描かれているのが、エステとかウェディング・ビジネスとか、怪しい水「日輪水」の販売業や、風俗産業などで、まあざっくり第三次産業なわけである。

一般論としては第三次産業は、第二次産業ほど人口は養えないというところが、現在の日本の課題であり、この映画の底流にあるかなしみの根源なのであろう。

ちなみに第一次産業としてちょっとだけ現れるのが、養豚業で、稲作農家とか畑作農家とかではないところが斬新だと思った。作品の中では、豚舎が増やせる=それなりに成長産業という描かれ方をしていることから、第一次産業は衰退側ではないように描かれている。

ここらあたりがステロタイプの第一次産業and古き良き農村共同体を描く気はないという作り手のこだわりなのであろう。

話はいきなりとびますが、日本の農漁村(ムラ)と都市(マチ)いうのは、近世まで第一次産業+第三次産業のセットで人口を養っていくという基本スタイルでやってきていた。

江戸や上方、さらには各地の城下町などでは、一応第二次産業に属することになる手工業がそれなりに人口を養っていたわけだけれども、これらは多分に支配層であるお侍さん相手の産業であることが多かった。

ちなみに新潟市は城下町でないため、武士層相手の手工業がさほど発達しなかった県庁所在地という、自慢していいのか分からない特徴を持っています。

で、産業革命以降、第二次産業が養える人口が急激に増えるわけだけれども、この辺は歴史人口学的には、第二次産業が増えたから人口が伸びたのか、人口が伸びたから第二次産業が盛んになったのか、なんともいえないという話らしい。

この文章を書いているわたし、及び、フットボールネーションに帰属するみなさんは、もう圧倒的に第二次産業がかっちりと人口を養ってくれる世界を生きているし、これを否定することは、農業県新潟にあってもなかなか難しい。

そもそもヨーロッパのフットボールの発達は、ほぼ第二次産業に従事する労働者諸君によって支えられていたといえるわけですし。

映画『サウダーヂ』は、第二次産業があたかもロスタイムに入ってしまった世界の物語である。

登場人物は、おしなべていらいらしているし、みんなポルトガル語におけるサウダーヂ感が漂う奇跡(奇蹟)的ななにかを期待しているのだけれども、一方で、まもなくホイッスルが吹かれてしまうことを覚悟しているようでもあり、ロスタイム特有の焦燥感が物語全体を覆っている。

これはリーグ戦でいえば、勝ち点が僅差で足りない状況でいまだ降格圏から抜けられないまま最終戦を迎え、しかしチームの調子は下降気味みたいな焦燥感と絶望感といったところ。

甲府が舞台なだけにこの感覚は切実である。昨年のハーフナーのレッドカードがフラッシュバックで挿入されます。

もっとも、映画には映画『カスタムメイド10・30』でサンフレッチェがほぼ出てこないのと同じレベルでサッカー要素はあまり出てこなくて、ヴァンフォーレののぼりが商店街にわびしく立っているのが出ているくらいでした(笑)。

百年構想はいまだ道半ばなりけりといったところでしょうか。

新潟でこの手の映画を撮るときは是非アルビ要素を盛ってもらいたいところです。

作品としてはサッカー要素は少なくても、サッカーの外側を考える上で、さらには地方都市という存在を考える上で、いろいろな発見があるいい映画でした。

アルビレックス新潟の調子が上がらず、いらいらしている貴方には、いらいらの矛先を変える意味でもおすすめかも(笑)。

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2011年1月24日 (月)

ソーシャルネットワークを見て世界を変えるという事について考えた

ここのところ映画を結構観ているのだが、自分のメモ帳に書きこんで満足してしまいエントリをするまでの気合いが入らない。

なんだかんだで、書き心地のよい筆記具とペン先の触感が絶妙なメモ帳があったらわざわざPCにむかって雑念を入力はしないものです(笑)。

で、久しぶりのエントリ。

ネタ的にデジタルとリアルワールドとのかね合いに関するものなので備忘的にブログに書いておこうと思い立った次第です。

映画「ソーシャル・ネットワーク」は、日本では今ひとつもりあがっていないが、2011年には盛り上がるかもしれないFacebookがテーマ、というか舞台というか、まあメインなネタである。

しかし、歴史記録としてのFacebookサクセスストーリー&愛憎劇というわけではなくて、フィンチャー監督は、アマデウス的なテーマ、「天才と凡才と俗物世間」みたいなことを描きたかったのではないかと思う。

いろいろオトナな判断を入れれば、なにか架空のSNSの名称を設定してもよかったのだろうが、リアリティラインのレベルで、Facebookという固有名詞を出さざるを得なかったのだと思う。

これはなかなかに切実な問題で、google的なものでアマデウス的なテーマを描こうと思ったらgoogleという固有名詞を出さなければリアリティは大きく減衰してしまうわけだし、amazonでもしかりである。

世界には5台しかコンピュータは必要ないという箴言があるが、これは5つ分の神話体系しかない世界のようなイメージがあり、それなりに息苦しいことではある。

で、物語はザッカーバーグとエドゥアルドとショーンパーカーの三角関係的な関係と、俗世間の象徴としてのウィンクルボス兄弟との確執をベースに展開していく。

ショーンパーカーはメフィストフェレスというか狂言回し的に描かれていて、凡才エドゥアルドと天才ザッカーバーグとの中を、結果的には引き裂いていく。

物語の中ではエドゥアルドが非常に哀しげな人物として描かれているが、これは作劇的に、凡人達の現世(うつしよ)をウィンクルボス兄弟(俗世間)とエドゥアルド(凡才)に分割して象徴させてしまったからだと思われ、そういう意味で登場人物として不当に俗悲劇的な役割を担わされてしまっていたのかもしれない。

ショーンパーカー-ザッカーバーグラインは、「俺たちで世界を変えるぜぃ」みたいなアッパーなアゲアゲ感覚で描かれていて、まぁ、社会的には問題があるのだけれども、すごく魅力的な人物として描かれていた。

フィンチャー監督が、ザッカーバーグを主人公にして、虚実を織り交ぜつつ映画にしたら、現代版アマデウスができると踏んだのは、映画ビジネス的には大成功だと思う。

しかし、今まさに世界を変えているレイヤーは、ザッカーバーグの業績の下層にあり、それはPerlやRubyやPHPを生み出した人々や、ストールマンが息巻いているようなレイヤーなのだろうと思う。

そういう意味で、われわれは世界をぐりぐりと変えている人々の生き様をライブで観ることができているわけで、映画作品にきっちりと収められたお話よりも、よっぽど面白いことなのだと思う。

これは、やや大げさにいうなら、神話の世界をリアルタイムで観ていられるような感覚とでもいうべきだろう。

このブログの主題であるフットボールのお話に無理矢理展開するなら、フットボール世界を変えたのはクライフでありサッキなのだろうと思う。

モウリーニョは、優れた監督だけれども、世界を変えてる感はなくて、映画の中でいえばエドゥアルド感が若干漂っていると(かなり主観が入っているけどね)。

アルビレックスでいえば、反町&黒崎時代よりも鈴木淳時代の方が世界を変えている感が強かった。

ただ黒崎アルビの2011年は、クラブ・マネジメント的に世界を変えてる感が強まる予感を感じている。

興が乗ったら、こういったことについても考えをまとめてみたいです。

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2010年9月13日 (月)

追悼 谷啓

谷啓がこの世を去った。

1987年から1989年にかけて、ひねくれた高校生だった私は、友人らがロケンロールや洋楽に青春をいろどらせているのを横目に、ひたすらクレージーキャッツを聴き、せめて15年はやく生まれたかったと思っていた。

はなやかなクレージーキャッツの伝説の中で、あまり目立たないがきっちりとした役割をこなし、きっちりとそのリターンを得ていたのが谷啓だったと思う。

その玄人ごのみ感ただようたたずまいに、私はあこがれていたし、谷啓のように生きたいと思っていた。

「愛してタムレ」の、なんともいえない脱力感などは、なかなか真似のしようのない味わいであった。

追悼番組で結局どの局もガチョンだけを取り上げ、「愛してタムレ」を取り上げないのはなんでなんだろうかと思った。

ともあれ、あこがれていたエンターテイメントの巨人がまたひとり減ってしまったことは、さびしい限りである。

合掌。

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2010年7月26日 (月)

映画『借りぐらしのアリエッティ』を観て、ジブリ作品における多摩的な想像力の行方について考えた

月曜日ということでデッキーのユナイテッドシネマで『借りぐらしのアリエッティ』を鑑賞してきた。

夏休みなので子供も多くさすがに混んでいた。

作品的には『崖の上のポニョ』よりもしっかりとしてきるので、お子さまの知育的にはよろしいのではないかと思った。

原作であるメアリー・ノートンの『床下の小人たち』は、イギリスのファンタジーとして有名な作品なので、何度か読んでいたが、だいぶうろ覚えになっていた。『借りぐらし~』を観て、「あ~こんな感じの不思議な不安感のある作品だった」ということを思い出したので、そういう意味では原作のテイストをうまく生かしていたと思う。

うろ覚えのくせに偉そうだな。

イギリスでファンタジーが隆盛した背景には、大英帝国の繁栄と衰退、さらにはわりとがっしりとした階級社会が残っているという二つの要素がある。それゆえ、作品世界には、夢見がちでファンタジーを受け入れる「浮き世離れした(上流階級の)人々」と、「世知辛く世間を生きる(下流階級の)人々」という二層構造が存在することが多い。
本作は、ジブリ作品にしては珍しく、そういった階級間の思考方法の違いみたいなものがきっちりと描かれていた。お手伝いさんのハルさんが、世知辛い世間代表であり、「小人がいるかも=とりあえずとっつかまえる」的な思考法の人物である。

一方、お金持ちの奥様であるおばあさんと、病弱少年である翔は、浮き世離れ代表で「小人がいるかも=なにかプレゼントしなきゃ」みたいな思考法をとる人物として描かれている。

後者になんとなく正しい人間性を感じるのは、たぶん高度経済成長以降の価値観なのであり、それはジブリの良質な作品群が育んだ価値観ともいえる。

ホモ・サピエンス一般の価値観では、合理的に判断するためにも「とっつかまえる」のが基本です。

文学では、ファンタジーを、教育を受けた近代人が愛好する夢物語として定義し、充分に教育を受けていない前近代の民衆の夢物語はメルヘン、という風に区別しているが(うろ覚え)、本作にはメルヘンの担い手のような豊かな想像力を持つ民衆は登場しない。

ジブリ作品でいえば、『魔女の宅急便』の奥様andバーサは、雇い主と使用人が、魔法という異物をそれぞれに異なる解釈で受け入れていたのに対して、本作のハルさんは「市原悦子in家政婦は見ていた」的な実証主義者で、それゆえファンタジーの破壊者であり、かつ狂言回しとして魅力的な登場人物として描かれていた。

物語世界的には小人たちよりも異物感が強烈なわけです。

対して、借り暮らしの小人の皆さんの立ち位置というのは、「浮き世離れ代表の人々」の物質文化と思考方法に寄生しているにも関わらず、かれらとの交流は忌避するといったなんとも卑怯臭いポジションである。

これはややメタレベルで考えれば、ファンタジー作品の需要層である近代人たちに、きっちりとフォーカスをあわせて完全に露わになってしまったファンタジーは、もはやファンタジー足りえず、それゆえ「どこでもないどこか」感、あるいはメルヘンのしっぽみたいなものを常に漂わせていなければならないということのメタファーなのだと思う。

近年のハリウッド映画の大作ファンタジー映画がはまりこんだ罠の構造といえるのかも知れない。

『ライラ』とか、そこそこおもしろかったんだけどねぇ。

本作では、イギリス的な階級社会を日本に接ぎ木するにあたって、多摩の各地に残っているどこかのお屋敷的な空間を設定していた。

杉並区、世田谷区あたりも含めた東京西郊には、ぽつりぽつりと豪農や戦前の金持ちの別荘宅みたいな屋敷地が残っていて、それらは近年、相続の関係なのか、つぎつぎに巨大マンション用地として活用(笑)されている。

お屋敷の背後に巨大マンションが描きこまれているところなどに、そういった現実の多摩感が挿入されていた。

ジブリ作品と多摩ということでは、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『耳をすませば』などの作品があるが、前者では多摩の自然環境の破壊と郊外的な想像力の誕生、後者では郊外にアジャストした若者の想像力のあり方みたいなものが描かれていた(ざっくりしすぎのまとめだな)。

これらのジブリ作品には、明快に想像力礼賛みたいな価値観が底流にながれていたと思う。

対して本作の作品世界における、借りぐらしの小人の面々や、舞台である屋敷地は、生態学的でいうところのレリック(残存種)のように描かれている。

シーラカンスみたいな残存の仕方をしている種というイメージですな。

この二重のレリックという構造は、舞台設定のテクニカルな面でも、ジブリ映像史的にも非常におもしろい、と思った。

われわれは、みな近代人として、ファンタジーを許容する豊かな精神世界をもたなければならないという『耳をすませば』あたりまでのメッセージに対して、本作は「ファンタジーみたいなもんは、基本的にレリックなんだから、深くコミットするもんじゃねぇ」みたいな、ものすごくまっとうなメッセージを発している、ように感じられた。

これは、宮崎駿の想像世界大爆発であった『崖の上のポニョ』の次の作品として、なかなかに次世代的でエスプリが効いていていいなぁと思いました。

邪推するに、社会がジブリに期待する「豊かな想像力」的なものは、ジブリの作り手に、ともすると自家中毒を生じさせるような価値観を強要していて、今後とも安定してジブリ的なポジションをとるためには、本作のような解毒剤を仕込んでおく必要があるのかもしれない。

端的にいえば、醜悪な人物として誇張されて描かれているハルさんが、わしらのようなしがない一般大衆が自画像としてもつべきイメージであり、お金持ちサイドの豊かなファンタジー世界なんか目指すなというところでしょうか。

作品のメッセージはたぶん違うのではないかと思いますが、個人的にはそのような力強い作り手のメッセージを読みとりました。

あと、ジブリ作品史上もっとも心が弱そうなお母さんというのも新鮮だった。

『ポニョ』でのソウスケのお母さんがポリティカル・コレクトな女性像を目指した結果、物語上のお母さん像としては失敗していたことに反省したのか、今回のアリエッティのお母さんは、ポリティカルにも問題があり、お母さんとしても問題がある人物として描かれていて、確実に進化していた。

さらに「原作でそういうお母さんなんで、すんません」という言い訳が待ちかまえているところも清々しい(笑)。
ともあれ、宮崎作品でないジブリ作品のスタンダードとして、わりとしっかりとした作品だと思いました。

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2010年5月26日 (水)

映画『川の底からこんにちは』は『アリス・イン・ワンダーランド』よりも「赤の女王仮説」を映像化していた

魅力的な赤の女王が売り!という宣伝惹句にひかれて四月の桜の頃に観に行った『アリス・イン・ワンダーランド』は、残念ながら「赤の女王仮説」を全然ビジュアライズしていなかった。

「赤の女王仮説」というのは無理矢理要約すると、生物は全力で進化し続けることで、ようやく種として絶滅せずにとどまり続けることができる、みたいな生物学の考え方で、前向きにも絶望的にも解釈できるところがたいへん魅力的である。

鬼才ティム・バートンが、"Red Queen's Hypothesis"を、どのように料理するのか、とても期待していたのだが、自分の奥さんを面白アリスキャラに仕立てていただけで、がっかりだった。

勝手に期待して勝手にがっかりしている自分勝手な観客ではありますな。

で、五月も下旬に入ったナビスコ杯の苦い敗戦の翌日、せっかく上京したのだから小さいシアターで新潟には来そうにない映画を観ようと思い立ち、小雨の中『月に囚われた男』と『川の底からこんにちは』を梯子してきた。

前者は古き良きSFの雰囲気を漂わせた素敵な小作品であったが、エントリのタイトルにもあるように後者の方がいろいろ考えさせられた。

映画『川の底からこんにちは』は、旬の女優満島ひかりの放つオーラや、演出の面白さ(じゃっかん間口を狭めている感もあるけれども)、あるいは、中高年の性愛描写の滑稽で切ない感じなど、いろいろと魅力にあふれているのだけれども、私は非常にロジカルに、膝を打つような爽快感で楽しめた。

この作品は、私の観た映画の中で、今のところもっとも「赤の女王仮説」の映像化に成功している作品である。

『アリス~』から一月遅れで、観たかった内容の映画に出会えたのでよろこびもひとしおである。

新潟に来るかどうか目下未定なのだけれども、この泡沫ブログの読者の皆さんにも是非先入観なく観て貰いたいので、ネタバレ的なことはなるべく避ける。

物語は、主人公佐和子の口癖である「中の下だから」「しょうがない」というキーワードを軸に展開していく。そして「中の下だから、しょうがない、がんばろう」というなんとも厭世感にあふれたロジックが、物語の後半で突如巨大なエネルギーを生み出す回路に転換していくところが見所である。

映画を観てみたいという気持ちにまったくならないストーリーの要約ですんません。

で、どこが「赤の女王仮説」的かというと、「中の下」というポジションにとどまり続けるために全力で走れ、というロジックをクライマックスをもってきているところである。

これは、目的なく疾走していく青春まっしぐら映画『ボーイズ・オンザ・ラン』や、やわらかくその場所に止まろうとする青春癒し映画『ソラニン』などとは、あきらかに一線を画している。

印象的だったのは、ダメ彼氏の連れ子の娘を保育園に預ける際の受け答えで、ちょっとおかしいくらい笑い泣いしてしまった。

このシーンは映画史に残る、というか残すべきシーンである。

物語は、基本的に色恋沙汰や家族の再生みたいな流れに沿って展開していくのだけれども、昨今の青春映画とはあきらかにスケールの違う古典的なビルドゥングス・ロマンのたたずまいを漂わせていて、そういう意味でこの映画はいわゆるテン年代(2010年代のかっこつけた言い方)の枠組みとなり得る可能性をもっているのではないかとすら思った。

あと、見終わって考えを整理しているときに気づいたのだけれども、この映画の登場人物達は、都会育ちのダメ彼氏を除いて(笑)、近代的自我をもった戦後社会の市民というより、もうすこし「どすん」と時代を超えた個人事業主として描かれていて、そういうところも他の映画と一線を隠しているのではないかと思った。

考えてみれば、戦後の日本社会というのは、農地改革によって、戦前の、山漁村の小作的な立場が多数派の社会から、突如、自作農=個人事業主が多数派の社会になったところに出発点がある。

新潟県の歴史をひもとくと、それは大変にわかりやすくて、その個人事業主たちが田中角栄的なるものを支える基盤となっていくわけだけれども、これはまた別のお話ですな。

三波春夫(あ、新潟県人だ)の『世界の国からこんにちは』のメロディが高らかに流れた1970年以降、そういった多数派個人事業主第一世代たちの子女は、大都市圏に誘蛾灯に引き寄せられるかのように移り住んでいき、いつしか個人事業主感覚を社会的に麻痺させて、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』で戯画的に描かれている、しがないサラリーマン市民ちゃんたちに変化していったわけだけども(どんな日本現代史認識だ)、『川の底からこんにちは』はそういった、40年来の麻痺からの覚醒を促している、ともとれる。

クライマックスで流れる社歌の「たおせ~たおせ~せいふ~」という歌詞がもっているラディカルさは、あながちコメディとして笑ってすませられるものでもないのかもしれない(笑)。←笑って済ませている。

そんなわけで、「走り続けていなけりゃ、倒れちまう~」(from中島みゆき「断崖~親愛なるものへ」。)みたいな乾いた前向きさが、事業主感覚ではなく近代的自我にとらわれすぎた、われわれ現代っ子たちのウェットなハートを、ほどよく中和してくれる素敵な映画であった。

こういう小難しいことを考えず、ハートフルコメディとしてもかなりいけてる映画だも思います。

新潟に来たらもう2回くらいみたいものだ。いや、来てくれ~。

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2010年4月13日 (火)

映画『息もできない』と『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を観て、「牧する」ということについて考えた

ここのところポッドキャストでTBSラジオの人気番組「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」をパワープレイしており、そこで紹介された映画を極力観るようにしている。

で、順番は逆になるが、看板コーナー、シネマハスラーで紹介された映画『息もできない』と『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を観た。

二つの作品に共通するのは人と人の「コミュニケーション」と「フィジカルな身体」をめぐる汎ホモ・サピエンス的な諸問題であり、それゆえ、ふたつの作品は並べて論じられる。

ここで補助線になるのは、司馬遼太郎がいっていた日本列島には去勢文化=牧畜文化が伝わらなかったという命題である。

『息もできない』は、暴力的(ゲパルティッシュ)なコミュニケーションをめぐる、いわば「羊飼い」の、牧畜的な物語であるのに対し、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は「羊」側の物語である。

羊とか犬とか、とにかく家畜ということばがせつないのは、生殖をコントロールされている点にある。

生殖は、」ホモ・サピエンス的にいえば「性愛」であり、これがままならないという点で、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は主人公の田西(峯田和伸)も、ヒロインの植村ちはる(黒川芽衣)も同じように「ままならない」。

で、両者とも作品の中では「ままなっている」青山(松田龍平)に、いいようにコントロールされ、「牧されて」しまうわけである。

青山のポジションは、暴力や性愛といった身体性をコントロールする羊飼いのポジションであり、これは『息もできない』のサンフンのポジションである。

サンフンの性愛については、『息もできない』の中では描かれていないが、身体性という意味では、「牧する」側であるといって間違いはないと思う。

サンフンは、下品なことばしか使えない最下層の問題をかかえた人間ではあるのだが、すくなくとも己の身体をコントロールできており、子分をコントロール(結果的にはできないのだが)している点で「羊飼い」側である。

一方『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の主人公達は、圧倒的に羊飼いに飼われる羊のポジションであり、生殖=性愛が己の意志によっては「ままならぬ」側の存在である。

率直にいって哀しい人々である。

ホモ・サピエンスとは、己を家畜化した種であるという考え方があるが、この考え方は「牧する側」と「牧される側」というなんとも苦々しい枠組みを内包している。

サンフンは、満足に自分を表現することばをもたないが「牧する側」の論理に殉じる。

対して田西は、同じように満足に自分を表現することはできなず「牧される側」の論理に押し込められそうになるが、最後の最後でそれに殉じようとはせず、走り出していく。

その姿は、たとえば『フォレスト・ガンプ』などの疾走シーンなどで表現される解放感よりもぎこちなく、不穏ではあるが、確実に己を縛るくびきからの脱出である。

話はすこし飛ぶが『ボーン・トウ・ラン』というノンフィクションでは、ホモ・サピエンスは狩猟採集民として走るために進化してきたという説が紹介されている。

この観点からみれば、田西は牧される、ドミスティケートされた世界から、狩猟採集的「狩る「狩られる」世界へ走り出していっているわけで、そホモ・サピエンス的にとても原初的(プリミティブ)な疾走感を作品のラストで示しているともいえる。

本当はここに、暴力描写という視点から『ハート・ロッカー』もあわせて、論じてみたかったのだが気力が尽きた。

ともあれ、両作品とも一見の価値有りです。

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2009年2月10日 (火)

映画『ベンジャミン・バトン』の心地よい閉塞感

ヒロインのケイト・ブランシェットが異常に美しい映画『ベンジャミン・バトン』を観てきた。

なにか特殊なフィルタをかけているのか、ケイト・ブランシェット演じるところのデイジーの肌だけが陶磁器のような質感で撮られていて、「さすがエルフの女王を演じただけのことはあるの〜(ロードオブリングで)」と納得させられた。

まぁ、映画の筋とは直接関係ないんだけれど、デイジー見るだけでも「元本保証」請け合いです。

あ、出資法違反ですかな。

映画は、老人として生まれて若返っていく「数奇な運命」のベンジャミン・バトンの人生を、静かにたどっていくようなタッチですすんでいく。

設定はややキテレツだが、映画としては非常に静謐な雰囲気にまとめられており、観る者の心を整理整頓するように落ち着かせてくれる印象だ。

登場人物に悪人がいないというのもいい。

T-JOY新潟万代のレイトショーで鑑賞して、萬代橋を渡りながら考えたのは、手塚治虫の「火の鳥」のエピソードのような筋書きなのに、どちらかというと「閉じた」後味なのはなぜなのだろうということ。

「火の鳥」だと、宇宙とか生命とかめくるめく壮大なテーマが語られるわけだが、ベンジャミン・バトンは、淡々と生まれて、淡々と死んでいく。

どうも、神様というか、超越的存在に対する考え方の違いなのかもしれないと、ぼんやりと考えた。

まぁ、単純に作り手の焦点の当て方の差なのかも知れないけれども。

しかし、若返っていくブラッド・ピット演じるところのベンジャミン・バトンは、内面的には成熟方向にあるわけだから、切ない感じで、ブラッド・ピットもそういった複雑な役を
好演していたように思う。

私の心の中のナンバーワン・ベンジャミンは、もちろんベンジャミン伊東なわけだが、ナンバーツー・ベンジャミンの称号を与えてもよいと思った。


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2009年1月19日 (月)

映画『ザ・ムーン』を観てビッグサイエンスの凋落について考える


まったく予備知識なく観に行った映画。

しばらく「かぐや」のハイビジョン映像の映画だと思っていたくらいだから、いい加減なものです。

実際は、アポロ計画に参加した「アストロノーツ」達のインタビューと、記録映像を構成したドキュメンタリータッチの映画でございました。

巨大ロケットが氷をまき散らしながらリフト・オフする映像は、しみじみ画になると思った。


で、何に驚いたかというと、人類が盛んに(5回だけどね)月に行っていたのが、自分が生まれる前後で、しかもそののち人類は月には行っていないこと。

さらに、この驚きがポルノグラフティによってすでに歌われてしまっていることも、メタレベルで驚くべきですな(笑)。

科学技術の進歩が人類の進歩とはシンクロしているという幻想は、もはや冷めてしまって久しいわけだ。

なんだか、「青く光る水の星」(by森口博子『水の星へ愛をこめて』)に閉じ込められてしまったような、しょんぼりとした気分になる。

そういえば、映画の主要登場人物であるアームストロング氏のファーストネームを「ルイ」だとしばらく思い込んで観ていた。

ルイ・アームストロングは全く関係ないですな。

で、アームストロング氏についてファーストネームで言及されるたび、

「「ニール」ってだれだよ、「セダカ」かよ?」とか思っていた。

『水の星へ愛をこめて』の作曲はニール・セダカだから、微妙にガンダムつながりの連関想起ではある。

無理矢理だけど。

ガンダムといえば、よく「ワンメイクの試作機ガンダムと量産型ザク(あるいはジム)と、どっちがすごいか。」という話題があるけれども、アポロ計画のようなビッグサイエンスにはワンメイク感が漂っているように思った。

人類の中のカリカリにチューンナップされた部分が、予算の能力を駆使して、ものすごくがんばって到達したレベルをもって、「人類最高到達地点」を設定するのは、やや青臭いのではないだろうか。

むしろマス・プロダクトなレベルでどこまで到達できるのかというところが今日的な価値観なのではないだろうかと思った。

なんつってもアポロに積んでたコンピュータよりも、マクドナルドで駄文を書いている私のeeePCの方が性能がいいわけですからねぇ(多分)。

とりとめもありませんが、そんなことを考えさせられる映画でございました。

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2008年8月 4日 (月)

映画『ハプニング』は、後からしみじみと楽しめます

久しぶりの映画批評。

この夏の映画は、はアニメやSFなども含めてわりと当たり年っぽい予感がある。

で、いろいろ感想などをがんばって書いていこうと思っているのだが、その先陣を切るのは、考え落ち系映画の巨匠シャマラン監督の作品、『ハプニング』。

結論から先にいうと、見に行って損はないが、得もないという絶妙なバランスの映画です。

ビジネス用語に「Win-Winの関係」という表現にならえば、「Draw-Draw」な感じの、勝ち点1映画とでもいえましょうか。

ひっかかるところが多いと楽しめちゃう法則

あんまり面白くないんだけれど、断片断片がいちいちひっかかって印象的な映画というのは、確実に存在する。

そして、私の中では、シャマラン監督は、そういう作品を撮らせたらピカいちの監督である。

この作品の前に見た「ヴィレッジ」も多分にその手のオーラが充満した作品であったが、本作はさらにパワーアップしていた。

『少林サッカー』のような突っ込みどころを明示してくる娯楽作品というのはあるが、『ハプニング』は、隠された突っ込みどころを探り当てるタイプの娯楽作品だといえる。

まず、最大の突っ込みどころは、そこそこお金を掛けて宣伝しているわりに、作品自体には「学生の自主製作映画ですか?」というくらい、お金がかかっていないところである。

実は、セットとかキャスティングとか見えないところで贅沢にお金を掛けているのかも知れないが、だとしても見えないところすぎである。

また、ストーリー展開とかカット割りとかも注意して見ていくといくらでも突っ込めてしまう。

前作「ヴィレッジ」と同じく、ストーリー順に追っていくとネタバレになってしまう趣向の考え落ち作品なので(そしてそこが多分この映画のもっともキモなんだが)、話のあらすじについては書かないが、基本パターンとして、

1、不安な音楽が流れ、
2、草木が風で「がさがさ」ざわめき
3、主人公達の表情が恐怖で引きつって…、

っていうわかりやすいホラー表現の型を繰り返して(ほんとになんども繰り返して)ストーリーは進んでいく。

どうにも安上がり感は否めない。

自然保護とか、夫婦愛みたいなテーマも描かれているが、どれもとってつけたような感じ。

上述の基本パターンでどれくらいヴァリエーションを作れるか!みたいなところが監督のチャレンジしているところのように感じた。

現代社会的なテーマとしては、
「(生物学的な意味での)自我が生きることに絶望すること、そしてそれが連鎖することの恐怖」

みたいなところがあるみたいだったが、本当にそれが描きたかったのかはよくわからない。

と、こういう風にいろいろ書き連ねていくと、まったくつまらない映画のように見えてしまうが、これが案外お金を払って損した気分にはならないので不思議。

後から、「あのシーンはないよなぁ」とかしみじみと、思い出しつっこみを入れられるという意味では、記憶に残る佳作なのかもしれない、とは思った。

しかし、宣伝の仕方は明らかに、「超大作!!」みたいな感じなので、若干誇大広告にすぎると思います(笑)。

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2008年6月 5日 (木)

映画『僕の彼女はサイボーグ』を観て、Perfumeとボーカロイドの相違について考えた

予告編を観て「なに~綾瀬はるかがサイボーグ!」と衝撃を受けた、期待の作品『僕の彼女はサイボーグ』をレイトショーで観てきた。

「いちいち関節のサーボモーター音を入れたりするのかなぁ」とか「オマエヲ逮捕スル、とかいうのかなぁ、DOSプロンプトとか出ちゃうのかなぁ」などと、妄想をふくらませていたのだが、結論からいえば、タイトルに見過ごすことのできない間違いがあるところが残念な映画であった。

この映画のタイトルを内容に従って正確につけ直すなら、『僕の彼女がコスプレ綾瀬はるか、しかも七変化だったらいいなぁ、ハァハァ』といったところだろうか。

つまるところ、全面的に綾瀬はるかが魅力的な、その他の部分はほぼ監督の妄想といっていい映画だった。

BLOG界隈でも「サイボーグじゃねぇよ、アンドロイドだよ」と非難が轟々と渦巻いているわけだが、韓流映画のクァク・ジェヨン監督の背景はいざ知らず、 制作に関わっているTBSさんとか電通さんとか、さんざん日本のSFでいい目を見てきた会社が、サイボーグとアンドロイドの区別をつけないで、語感だけで タイトルを付けてよしとしているのは、かなり末期的だと思った。

手塚治虫と、石ノ森正太郎と、司郎正宗と、押井守と、フィリップ・K・ディックに謝れ、と声を大にしていいたい。

しかし、韓流のクリエーターは、機械化された身体であるサイボーグと、人造人間であるアンドロイドという、SF作品では古典といっていいテーマにあまり関心を払わないでいいのだろうか。

謎である。

一方の日本のクリエーターは、2008年現在、低予算TVドラマで『スミレ16歳』を作っているわけだが、低予算のコメディであるにもかかわらず、こちらの方が明らかに「人間と人形」という思想的に問題を考える上で深いものがある。

というわけで、『僕の~』は映画作品としては、かなり???なわけだが、綾瀬はるかはよかった、というかむしろ綾瀬はるかのシーンだけを編集して、素敵な音楽をつけてPVとして大画面で流した方がよかったのではないか。

で、エントリの表題に戻るが、サイボーグvsアンドロイド問題から派生して、ここのところやたら聴いている中田ヤスタカサウンドと、流行ってはいるが、個人的にはあまり熱狂できない初音ミクなどのボーカロイドの差はどこにあるのかという問題についてちょっと考えた。

Perfumeの面々やCapsuleのコシコの生の声は、AutoTune(というソフトらしい)によって、かなり人工的に加工され、ちょっときくとロボットヴォイスの様に聞こえる。

一方、1音レベルまで分解され加工された声を組み合わせて歌うボーカロイドの声は、そのものずばりロボットヴォイス的な歌声になっている。

両者は、2008年現在では、素人の耳でも聞き分けられる違いをもっているが、今後、技術が進歩していくと、おそらく現在よりは似通ってくるのではないかと思う。

ここに古典SFからの「人間とはなにか」という命題があらわれてくる。「歌とは?人間の声とは何?」という問題ですな。

中田サウンドのラジカルなところは、この命題に臆することなく、理屈をこねることなく、直球勝負で挑んでいるところにあるのではないだろうか。

とくにPerfumeの面々の声の扱いなどは、サイボーグ命題を考える上で外すことができない司郎作品『攻殻機動隊』に出てくる「ゴーストハック」という概念を思い起こさせるスリリングさがあるように思う。

っ、というわけで話はあさって方に飛んだ上に、オチもなくてすいません。

ですが、出来れば綾瀬はるかには、日本でもハリウッドでもいいから、きっちりとしたサイボーグものをもう一作撮ってもらいたい。

なんか不思議な映画で、綾瀬はるかを激しく観たい人以外には勧められない作品でした。

が、観たい人は、可及的速やかに鑑賞すべきである。

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